門前の小僧

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戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第四回

2010-10-17 21:46:29 | ばさら
日本史上もっとも派手な英雄、道誉の話題にはこと欠かない。今シリーズでは、さしあたり「太平記」から代表的な逸話を三回にわたってご紹介します。
まずは皇族に対する、恐れを知らぬ「バサラ」の狼藉ぶりを見てみましょう。

■道誉逸話1「妙法院焼打」
「太平記」巻第二十一

高師直、土岐頼遠とならんで、”バサラの三傑”とされる佐々木道誉。そのバサラぶりを伝える代表的な逸話が、太平記巻第二十一にある妙法院焼打事件である。その被害者、妙法院門主は天台座主亮性法親王で、光厳・光明両天皇の連枝であった。

この頃ことに時を得て、栄耀人の目を驚かしける佐々木佐渡判官入道々誉が一族若党ども、例のばさらに風流を尽くして、西郊東山の小鷹狩して帰りけるが、妙法院の御前を打過ぐるとて、跡にさがりたる下部どもに、南底の紅葉の枝をぞ折らせける。
時節、門主御簾の内よりも、暮れなんとする秋の気色を御覧ぜられて、
「霜葉紅於二月花なり」
と、風詠閑吟して興ぜさせ給ひけるが、色殊なる紅葉の下枝を、不得心なる下部どもが引き折りけるを御覧ぜられて、
「人やある、あれ制せよ」
と仰せられける間、坊官一人庭に立ち出でて、
「誰なれば御所中の紅葉をばさやうに折ぞ」
と制しけれども、敢て承引せず。
「結句御所とは何ぞ。かたはらいたの言や」
なんど嘲哢して、いやなお大なる枝をぞ引き折りける。折節御門徒の山法師、あまた宿直して候ひけるが、
「悪ひ奴原が狼籍かな」
とて、持ちたる紅葉の枝を奪ひ取り散々に打擲して門より外へ追ひ出だす。
道誉これを聞き、
「いかなる門主にてもをわせよ、このごろ道誉が内の者に向かつて、左様の事かけん者は覚えぬ物を」
と怒りて、自ら三百余騎の勢を率し、妙法院の御所へ押し寄せて、すな
はち火をぞ懸けたりける。折節風すさまじく吹きて、余煙十方に覆ひければ、建仁寺の輪蔵・開山堂・並塔頭・瑞光菴同時に皆焼け上がる。門主は御行法の最中にて、持仏堂に御座有りけるが、御心早く後の小門よりかちはだしにて光堂の中へ逃げ入らせ給ふ。御弟子の若宮は、常の御所に御座有りけるが、板敷の下へ逃げ入らせ給ひけるを、道誉が子息源三判官走り懸かりて打擲し奉る。そのほか出世・坊官・児・侍法師共、方々へ逃げ散りぬ。夜中の事なれば、時の声京白河に響きわたりつゝ、兵火四方に吹き覆ふ。在京の武士共「こは何事ぞ」とうち騒ひで、上下に馳せ違ふ。事の由を聞き定めて後に馳せ帰りける人ごとに、
「あなあさましや、前代未聞の悪行かな。山門の強訴今に有りなん」
と、云はぬ人こそ無かりけれ。

この時代、比叡山といえば、権威の象徴であった。また、独自の僧兵を養い、政治的・軍事的な面においても絶大な力を持っていた。それを相手に乱暴狼藉の限りを尽くしたのであるから、人々は「あなあさましや」といいつつも、拍手喝采したのである。
道誉は、この事件の責任をとって、上総に流されることとなるが、その道中は流人というより、ならず者の行進のようであったという。

道誉近江の国分寺まで、若党三百余騎、打ち送りの為にとて前後に相したがふ。その輩ことごとく猿皮をうつぼにかけ、猿皮の腰当をして、手ごとに鴬かごを持たせ、道々に酒肴を設へて宿々に傾城を弄ぶ。事の体尋常の流人には替はり、美々敷くぞ見へたりける。これもただ公家の成敗を軽忽し、山門の鬱陶を嘲弄したるかかりなり。

猿はいうまでもなく日吉大社(延暦寺)の神使。まさに、比叡山・妙法院に対し猿の皮をはいで見世物とし、面当てをした訳である。道誉父子に一目置いていた幕府の流罪処置はそもそも山門への申し訳程度のもの。一行の配流は、出羽はもとより上総にすら達さず、この近江国分寺から先は行方知らずとなってしまったという。
また宿々に傾城を弄んだというのであるから、道誉のバサラぶりは常軌を逸したすさまじさであったといわねばならない。

来週のカルチャー新講座

2010-10-17 08:50:42 | 能狂言
来週、10月期新講座が、渋谷・銀座にて2教室開講となります。
http://bit.ly/dvmz6b


10/19(火)
〈東京渋谷・東急セミナーBE〉「能の奇跡を観る」~奇跡と異聞の傑作能鑑賞入門~

毎月 第3火曜日 13:00~14:30
■今期は、主題の面白さ、演劇としての醍醐味にあふれる名作能をとりあげました。能のビデオとともに、謡曲詞章・出典文学をあわせて鑑賞・解説。はじめての方にも、能の演目・演技・ルールなどの鑑賞法がわかる入門講座です。6ヶ月コース

10/21(木)
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毎月第3木曜日 10:30-12:00
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戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第三回

2010-10-15 20:34:28 | 茶道
今回は、現代茶道大成期以前の茶の姿、中世の「闘茶」と「茶寄合」の風俗をご紹介しましょう。

■闘茶とは

闘茶(とうちゃ)とは、中世に流行した茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。日本では回茶・飲茶勝負・茶寄合・茶湯勝負・貢茶、中国では茗茶・銘闘などの異名がある。
中国の唐代に始まって宋代に発展したと考えられているが、日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自の形式を確立させた。
日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、鎌倉時代に入ってからである。後期に入ると各地で茶樹の栽培が行われるようになったが、産地間で品質に差があった。最高級とされたのは京都郊外の栂尾で産出された栂尾茶で、特に本茶と呼ばれ、それ以外の地で産出された非茶と区別された。最初の闘茶も本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始められた。『光厳天皇宸記』正慶元年6月5日(1332年6月28日)条に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったことが記されている。また、『太平記』には、佐々木道誉が莫大な景品を賭けて「百服茶」を開いたことが記されている。こうした流行に対して「群飲逸遊」という倫理面での批判や闘茶に金品などの賭け事が絡んだこともあり、二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されている程である。

室町期の書「喫茶往来」には、唐物による座敷飾が施された”喫茶の亭”で、禅院風の茶事が催された後、四種十服の茶勝負が繰り広げられ、都鄙善悪が判じられたという。

闘茶の方法には複数あるが、闘茶の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたのが、四種十服茶(ししゅじつぷくちゃ)であった。さらに前述佐々木道誉の「百服茶」をはじめ「二種四服茶」・「四季茶」・「釣茶」・「六色茶」・「系図茶」・「源氏茶」などがあった。

東山文化へと移行していく15世紀中頃からこうした闘茶は衰退の様相を見せ、更に村田珠光・武野紹鴎・千利休によって侘び茶が形成されていくと、闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されるようになっていった。それでも、闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、また侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きが現れた。闘茶は十七世紀、如心斎宗左により千家七事式に「茶カフキ」として付け加えられ、今日に至っている。


■茶寄合とは

中国宋代の文人茶会が源流。日本では宋の”茶競べ”を模して闘茶会として茶寄合が開かれるようになった。ここでは多数の武士が集まり、闘茶のみならず、囲碁、双六、連歌などが盛んに催される。基本的には自由な酒食を伴う、娯楽的な集まりである。のちには茶会と呼ばれるようになり、受容層も貴人から庶民へと移行していき、やがて茶の湯、今日の茶会となっていく。

その具体的な風俗が、画像の「祭礼絵草子」にみることができる。右の室では、唐絵・唐物を掛け並べた座敷で、人々が茶を喫す。その手前には、州浜風の盆栽も見える。
左の室では、書院・棚飾りのある部屋に続いて、簀子の部屋があり、手前では男が茶を点てている。簀子の部屋の真ん中には水がたたえられており、その中に水がめも見えるのは、当時「淋汗」とよばれた夏風呂とみられるが、異説もある。

この茶寄合の中でも、唐物を中心とした数奇の茶の傾向がうかがえる。しかし、その主目的は「賭け茶」であった。

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第二回

2010-10-13 21:03:54 | 能狂言
「ばさら大名」道誉。南北朝時代一世を風靡し、のちに「カブキ物」と呼ばれるようになる、「ばさら」とはいったい何でしょうか?

■ばさらとは

ばさらとは、日本の中世、南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられた。
婆娑羅など幾つかの漢字表記があり、梵語(サンスクリット語)で「vajra = 金剛石(ダイヤモンド)」を意味するが、意味の転訛は不明であるとされる。

1.《仏教関係の語に冠して》堅固・最勝の意。もと、金属中で最も堅い物の名。
2.非常に堅く、こわれないこと。「―の身」
3.「金剛石」「金剛身(=すぐれた身体、すなわち仏身)」「金剛杵(しょ)」などの略。
<岩波国語辞典より>

身分秩序を無視して公家や天皇といった時の権威を軽んじて反撥し、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。足利尊氏は幕府の基本方針である『建武式目』においてばさらを禁止した。ばさらに対して批判的な古典『太平記』には、源家足利氏筆頭執事の高師直や近江国の佐々木道誉(高氏)や美濃国の土岐頼遠などのばさら的な行動が記されている。これらの大名は「ばさら大名」と呼ばれる。自身の実力に目覚めた新興武士層の衒いのない生活意識・美意識の表現である。古い権威の徹底した否定を第一義とし、もののあわれや、無常観を説く王朝の価値観と真っ向から対立。万事に派手で豪壮、かつ率直な形をとることである。

戦国武将と茶の湯「佐々木道誉」第一回

2010-10-12 19:44:32 | 茶道
戦国武将と茶の湯シリーズ、今回は「バサラ大名」として名高い、室町・南北朝の雄、佐々木道誉。
室町幕府、政所執事や守護として政権を荷いながら、和歌・連歌・茶道・能・花・香などに通じる「文化大名」の嚆矢としてもその名は知られる。世阿弥を三代将軍足利義満に紹介したのも、実は道誉であるらしい。
まずは道誉のプロフィールから見てみましょう。

■佐々木道誉

 永仁4年(1296年)~応安6年(1373年)。佐々木 導誉(ささき どうよ)/京極 導誉は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。導誉は法名で、諱は高氏(たかうじ)。一般的に「佐々木佐渡判官入道(佐々木判官)」や「佐々木道誉」の名で知られる(自署は「導誉」であるが、同時代の文書に「入道々誉」と記されたものが多いため)。官位は左衛門尉、検非違使、佐渡守など。

近江国の地頭である佐々木京極家に生まれ、執権北条高時に御相供衆として仕える。後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や六ヶ国の守護を兼ねた。

ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、『太平記』には、謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う、導誉の逸話を多く記している。失脚した細川清氏が南朝の楠木正儀らと京都を占拠した際に、自邸に火をかけずに立花を飾り、宴の支度をさせた事や、幕府内で対立していた斯波高経の花見の誘いを無視し、大原野(京都市西京区)で大宴会を催した事などである。

・文化

また和歌、連歌などの文芸や立花、茶道、香道、さらに近江猿楽の保護者となるなど文化的活動を好み、幕政においても公家との交渉を務めていることなどから文化的素養の深い人物であると評価されている。

〔和歌・連歌〕
「新続古今和歌集」小鳥の詠所収。「新玉津嶋歌合」。「群書類従」三首の詠所収。連歌「筑波集」に八十余首所収。

〔猿楽〕
近江猿楽、犬王道阿弥を愛顧。観阿弥・世阿弥父子を二条良基、将軍義満に推盤したのも道誉といわれる。

〔所有唐物〕
九十九茄子・京極茄子(織田茄子)、
四十石・沢姫・深山の大壺。