門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

「文化・芸術は何のためにある」

2011-01-17 20:34:30 | 能狂言
興味深い調査結果があります。世界中の人が”住みたい国”の順位、日本は12位、デンマークが10位。ところが、「国民の幸福度」では、日本は世界の90位、デンマークは第1位であるという。先日、日本経済新聞に掲載された文化庁長官、近藤誠一氏のコラムにある数字です。まずは、近藤氏の論述をご紹介しましょう。

●世界の各種機関の調査結果では、日本は世界の人が「住みたい国」の第十二位である。そして世界一の長寿国、第三の経済大国、国際競争力六位、世界で一〇番目に「人間らしさが実現されている国」、一人当たり所得は一七位。総合得点では世界第九位となっている。
●「日本は素晴らしい国だから、国民はさぞかし幸福であろう」と一見思える。
ちなみに近藤長官が居住したデンマークの各分野ランキングはそれぞれ、二九位、三〇位、九位、一六位、五位、総合で一〇位。住みたい順位は一〇番目となる。そして、国民の幸福度は第一位。ところが日本人の幸福度は世界で九〇番目である。
●日本の高い総合順位にくらべ「幸福度」のみ著しく低い理由のひとつが、戦後の経済偏重。驚異的な経済復興の裏で、二つの見逃せない国民の意識・価値観の変容が起こっていた。ひとつめは、復興の成功体験により、本来幸福追求の手段に過ぎない経済成長が自己目的化したこと。世界に評価される国になったのに、経済停滞と新興国の追い上げの前に、現在日本は閉塞感に陥ってしまっている。
●二つ目は、文化芸術の軽視。経済成長に資する画一性と勤勉さが美徳とされ、余暇や文化により幸福を求めることに”後ろめたさを感じる”ライフスタイルになってしまう。世界に誇る日本の文化資産を国民が鑑賞し、生活の一部にするシステムも構築しなかった。才能あるアーチストは海外へ流出。我々は成熟した社会の原動力となる創造性を養う機会を失っていた。
●まだまだ日本には優れた文化資源と才能は十分ある。発想を変え、文化芸術を教育と生活の中心に置けば、文化芸術の力が日本を再生してくれるはず。
(日本経済新聞夕刊 2011/1/14「幸福は文化芸術の力で」近藤誠一(文化庁長官)より要約)

戦後の凄まじい経済成長の中で日本人は、「幸福追求の手段でしかない経済成長が自己目的化し」「文化芸術を軽視し」「世界に誇る文化資産を国民が鑑賞し、生活の一部にするシステムが育たなかった」、と近藤氏は指摘します。確かに現在においても、世界の中で日本の行政が文化芸術に投入する予算は驚くほど少ない。国家予算に対する日本の文化庁予算は0.11%にしか過ぎないのです。欧米先進国のその比率は、イギリス0.31%、フランス1.01%、ドイツ0.26%となっています。
(文化庁HPより http://bit.ly/h6Mdda )

近藤氏が指摘するように、そもそも人間の生活の豊かさ・幸福度は、富や経済成長とは直接関係がない。人は衣食足り、健康であればそれだけでひとまず”幸せ”かもしれません。しかしそれではただ生きているだけのこと。人として充実して豊かに生き抜き、納得し、かつ満足して死ぬために必要なもの。それは円満な家族関係や人間関係に加え、人間にしか与えられていない「何か」を為し続ける”喜び”なのではないでしょうか。いやむしろ、人が人間として生きていくうえで作り出された、必要欠くべからざるものが「文化」や「芸術」なのではないか。

幸福とは何か、芸術とは何か。能の達人、世阿弥は定義します。
「そもそも芸能とは諸人の心を和らげて、上下の感を為さん事、寿福増長の基、仮齢延年の法なるべし。極め極めては諸道悉く寿福増長ならん」
(『風姿花伝』第五奥儀讃嘆云 http://bit.ly/gpwO8k)

芸能・芸術とは、すべての人の心を豊かにし、上下等しく感動を与えるもの。幸せの根本であり、長寿の秘訣である。つきつめれば、芸道はすべて幸せをもたらすためにある。
世阿弥は、またいいます。

「寿福増長の嗜みと申せばとて、ひたすら世間の理にかかりて、もし欲心に住せばこれ第一道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには寿福増長あるべし。寿福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば寿福おのづから滅すべし。」

幸せを呼ぶ手段であるからといっても、ただ利を求め欲得にまみれてしまえば、それこそまず道を廃れさせる第一の原因となろう。道のために努力するところに、幸せはある。己の幸せのためにのみ励むなら、道は廃れるばかり。道のないところに、なにゆえ幸せがあろうか。

「芸術・文化は、幸せと長寿を招くもの」。世阿弥の定義は明快です。しかし自分ひとりの欲得のために、それを手段とするならば、芸術と文化はその本来の目的を失い、幸せをもたらすどころか身の破滅を招くのだ、と戒めます。

100歳を越えてなお現役舞踏家として舞台に立ち続け、世界に感動を与えた人。100歳近くになって処女詩集を世に問う快挙を成し遂げた人。人として与えられた一度きりの生を、本当に豊かに生きる秘訣を「芸術と文化」が、時代と国を超え、教えてくれるのです。

戦国武将と茶の湯「松永久秀」最終回 平蜘蛛の釜

2011-01-12 21:17:45 | 茶道
「つくも茄子」とともに、いや、それ以上に松永久秀の名とともに記憶されている名物茶道具が、「古天明平蜘蛛」。蜘蛛がはいつくばったような異態・奇形の茶釜です。信長が喉から手が出るほどほしがったという希代の名物は、久秀自身とともに信貴山城で砕け散ったと伝えられている。別説では、剣術の祖、柳生宗厳に伝わった、いや、現存する…とも。これら謎に満ちた平蜘蛛の釜の足跡をたどり、松永久秀の回の終章としましょう。


■古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)

古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)は、戦国武将松永久秀所持とされる大名物の古釜。
「平蜘蛛」という名前の由来は、一般的な茶釜に比べて、蜘蛛が這いつくばっているような低く平らな形をしていたことから、付けられたという。

・久秀の首とともに爆破

織田信長へ臣従の証しとして大名物九十九髪茄子茶入を献上した久秀。しかし、この「平蜘蛛釜」は、たびたび差し出すようにと信長に強要されても、生涯手放すことはなかった。
後に信長への離反で久秀は信貴山城にて自害する事になるのだが、この時平蜘蛛が信長の手に渡るのを嫌った松永久秀は、自害の際に爆薬を平蜘蛛に仕込み平蜘蛛を抱いたまま爆死したとも言われている。

信貴山城落城の前日、佐久間信盛の使者が城を訪れ、平蜘蛛の釜を献上するなら救命されよう、と信長の意思を久秀に伝える。しかし、久秀はこれを拒否。わが首に平蜘蛛の釜を鎖で結びつけ、近臣に命じ火薬を仕掛け、もろともに爆破させたと伝える。享年六十八。永禄十年十月十日。奇しくも十年前、東大寺大仏殿を焼き払った同月同日であったという。

平蜘の釜と我等の頸と、二ツは、信長殿御目に懸けまじきとて、みじんこはいに打ちわる。言葉しも相たがわず、頸は鉄炮の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり。
『川角太閤記』

霜台は秘蔵の茄子の茶壷、平蜘蛛と云釜を打ち砕きて其のち自殺す。
『老人雑話 巻上』

しかし一方で平蜘蛛現存説もある。静岡県浜松市の美術博物館には「平蜘蛛釜」とされる釜がある。その由来によると、松永久秀とは関係がなく、「信貴山城跡を掘り起こしたらこの茶釜が出土し、信長の手に渡り愛された」としている。

また、『探訪日本の城』では平蜘蛛茶釜は懇意にしていた柳生宗厳(柳生新陰流の継承者)にすでに渡っていたという説を紹介している。『多聞院日記』には、

「昨夜松永親子切腹自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」

と記載されており、切腹した松永親子の首が安土城に送られている。これらによりただちに「爆死はなかった」とは言えないが、松永久秀の希有な人生から想像され諸説が生まれたものであろう。また『大和志科』によると久秀の胴体は達磨寺に葬られ、丁重に埋葬したのは宿敵であった筒井順慶と記載されている。

・平蜘蛛釜の評価

平蜘蛛。松永氏に失す。当世在りても不用。
「山上宗二記」

簡素な侘びの美を尊ぶ利休茶の湯の時代、宗二によれば、平蜘蛛のような異態・奇形を喜ぶ価値観はすでに過去のものという。平蜘蛛滅失は、久秀のごとき謀略・下克上を身上とする梟雄の時代が終わり、智略・合理をもって天下を統べる信長、秀吉等新しいリーダーの到来を象徴するものであったかもしれない。

戦国武将と茶の湯「松永久秀」第六回

2011-01-10 18:25:16 | 茶道
所持者久秀自身に勝るとも劣らず、「つくも茄子」は以降数奇な人生を歩むこととなります。その流転の様をざっとたどりましょう。
また久秀は「一の数奇道具」として自身の茶会で「つくも」を披露している。永禄八年、多聞山城で開かれた茶会記に千宗易、すなわち利休の名も見られます。


久秀がつくもを用いた茶会

・永禄元年九月九日 昼会。北向道陳、今井宗久、山上宗二
・永禄三年二月二十五日 信貴山城の朝会。津田宗達
・永禄六年正月十一日 多聞山城内六畳敷。興福寺塔頭盛福院、間直瀬道三、松屋久政、若狭屋宗可、竹内秀勝
・永禄八年正月二十九日 多聞山城内四畳半の朝会。松江隆仙、千宗易、松屋久政、若狭屋宗可(茶頭)

当代目利によるつくも拝見記

「白地金襴の袋、裏浅黄。浅黄の緒、内赤の四方盆にのせる。高さ二寸三分半、胴径二寸三分半、口一寸、底一寸。茶十二服入り」
今井宗久

「すこしもいやしきやうにはなし。あまりにあまりに、くらいありすぎたるやうには見えず」「(山名政豊の具足による疵は)とかくさやうには見え申さず」
津田宗及

「土薬、なり、コロ、口のつくり、古人天下一の名物とす」
山上宗二

永禄十一年九月久秀は、足利義昭を奉じて上洛した織田信長に、九十九茄子を帰属の証しとして献上する。吉光の太刀も副えたという。久秀の手中にあったのは、十一ヵ年にも満たなかったことになる(山上宗二記では二十年間とする)。

九十九髪を掌中にした信長は、以降茶の湯にのめりこんでいく。元亀二年八月岐阜城に飾った。ついで、天正元年十一月、妙覚寺茶会で二日にわたって披露。同三年十月、朝会に飾る。そして、同年六月二日、本能寺の変にて信長とともに焼け失せたと伝えられる(山上宗二記)。

しかし、本能寺焼け跡から奇跡的に発見され、次いで羽柴秀吉の手に渡った。その後秀吉から秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣で再び兵火に掛かる。戦後徳川家康の命で焼け跡から探し出されたもののはなはだ破損がひどく、漆接ぎの名工・藤重藤厳の手により修復された。その功により家康から藤重に下賜。代々藤重家に伝えられたが、明治になって三菱財閥の岩崎弥之助氏の所有となり、現在は東京世田谷の静嘉堂文庫美術館に保存されている。

戦国武将と茶の湯「松永久秀」第五回

2011-01-08 20:34:13 | 茶道
松永久秀より、信長へと献上された小茶壷史上最高の名品「つくも茄子」。さて、つくもを掌中にした信長は、これをきっかけとして茶の湯へと耽溺することとなります。信長の御茶の湯御政道を引き継いだ天下人秀吉、そして秀吉の茶頭、千利休により、茶の湯は日本中を熱狂させ、日本の代表的な文化へと変貌を遂げていきます。
今回は、久秀と「つくも茄子茶入れ」の奇しき縁をご紹介しましょう。


■大名物つくも流転記

 作物茄子・付藻茄子・九十九茄子などとも書かれ、また九十九髪・九十九髪茄子・松永茄子などとも呼ばれる。松本茄子・富士茄子とともに「天下三茄子」と言われた。
村田珠光が、代価九十九貫で入手したため、あるいは茶入表面の景色から、伊勢物語「ももとせにひととせ足らぬ九十九髪 われを恋ふらし面影に見ゆ」(在原業平)の歌からつけられた銘だともいう。

その昔(南北朝期)、佐々木京極道誉所持と伝えられる。その後、足利三代将軍義満の手に渡り、明徳の乱で戦場に向かう際も肌身離さなかったほど愛蔵した。ついで珠光が見出し、八代足利義政が保有し、東山御物となった。義政は、寵愛する山名政豊に与えたが、政豊もこれを珍重し、具足の袖につけ戦場に臨んだため疵がついた、と伝えられる。
その後方々を流れ、三好宗三を経て、越前朝倉太郎左衛門教景が五百貫で購入。ついで越前府中の小袖屋へ値千貫で売却。越前国一乱(加賀一向一揆)のため、小袖屋から京都の袋屋が預かるが、のちに勃発した天文法華の乱で消息不明と申し立て返却を拒んだという。当時すでに「天下一の名物」とされた九十九茶入を、所望する多くの大名に先駆け、手中したのが、畿内を制覇した松永久秀であった。永禄元年(1558)春のことである。

久秀は、さっそく相国寺惟高妙安に記文を作成させた。「作物記」である。原本は信貴山城落城で焼失するが、写しが甫庵「信長記」、「総見記」に収録されている。宣教師ルイス・フロイスにより、多聞山城とともに”つくもかみ”として遠くヨーロッパにまでその名が伝えられた、希代の名物九十九髪。久秀は、この自慢の道具を当世の名だたる茶人を招いておのれの数奇を誇示するのだ。

戦国武将と茶の湯「松永久秀」第四回

2011-01-07 11:59:14 | 茶道
大名物「つくも茄子」を所持したことで有名な戦国きっての数奇者、松永久秀。武野紹鴎をはじめ、北向道陳、今井宗久、津田宗達等、堺の有力茶人たちと多くの茶会を開き、親交を深めていました。久秀の茶とは、一体どのようなものであったのでしょうか。


■松永久秀と茶の湯

永禄年間における久秀の人的交流に目を向けると、奈良や堺の一流茶人との交際が目立つ。久秀は当代一流の数奇者としても知られており、『天王寺屋会記』『松屋会記』などの茶会記に記録が残っている。

茶の湯は、堺一の茶匠、武野紹鴎に師事したといわれる。久秀が茶の湯の席に初めて確かな記録に名を記すのは、まだ久秀が長慶とともに摂津芥川城にいた天文二十三年正月のこと。亭主は堺茶道の祖として知られる武野紹鴎、客は久秀と堺の豪商今井宗久である。宗久は紹鴎の女婿で後に信長・秀吉の茶頭を務めたほどの人物で、久秀は早い時期からこういった堺の有力者たちと交流があったことがわかる。
 当時、一流茶人として認められるためには、名物茶器を所持していることが必須条件であった。むろん久秀も数々の名器を所持していたが、中でも秘蔵中の秘蔵として特に大切にしていたのが、「つくも茄子」と呼ばれる茶入れと「平蜘蛛」茶釜である。つくも茄子は現存するが、平蜘蛛釜は久秀が信貴山城に滅んだとき自らの手で砕いたと伝えられる。

大和侵入前の永禄元年九月、久秀は千利休の師である北向道陳や山上宗二・今井宗久といった堺の豪商で高名な茶人たちとの茶会を催しており、その際に「つくも茄子」を披露している。これは久秀が一千貫もの大金を投じて購入したと伝えられる名物茶入れで、彼の経済力が既に大名家の家老クラスをはるかにしのぐものであったことが推察される。

 大和に腰を据えた後も、数々の茶会記により、今井宗久、津田宗達、若狭屋宗可、千利休等、当代の数奇者と交流を深めていたことが読み取れる。

・永禄年間 久秀茶会

永禄三年(1560)二月十六日
堺での昼会 津田宗達
床 牧渓「船子和尚の絵」 文琳茶入を四方盆に飾る 
台子 平蜘蛛の釜、桶の水指、合子の水翻、柄杓立
台天目茶碗で濃茶を点てる。後に台子の上の棚に。

永禄六年(1563)十一月五日
多聞城内六畳敷 朝会
津田宗達、今井宗久、若狭屋宗可
床 牧渓「遠寺晩鐘」 円座茄子茶入を漢東の袋に入れ四方盆に
台子 平蜘蛛の釜、餌ふごの水指、合子の水翻、筩の柄杓立
墨塗の台に只天目茶碗 火屋の蓋置
濃茶のみで薄茶点てず。引き出物 吉野紙百束