さて、時代と国を超えて人々の心をゆさぶる"邯鄲の夢"。いったい自分はなんのために生まれてきて、この先どうなるのか…、そして何を成し遂げ、あるいは何もなさずに死ぬのであろうか…。
能「邯鄲」の出典、唐の李泌『枕中記』、『太平記』巻第二十五
自伊勢進宝剣事付黄粱夢事、そして芥川龍之介『黄粱夢』をご紹介していきましょう。
●枕中記
李泌作(あらすじ)
唐の玄宗の開元年間のことである。
呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を廬生といった。
やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出でては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。
位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕えられた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしておりさえすれば、それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。
欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍には呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していたが、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。
「ああ、夢だったのか!」
呂翁はその彼に笑って言った、
「人生のことは、みんなそんなものさ。」
廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」
呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。
能「邯鄲」の出典、唐の李泌『枕中記』、『太平記』巻第二十五
自伊勢進宝剣事付黄粱夢事、そして芥川龍之介『黄粱夢』をご紹介していきましょう。
●枕中記
李泌作(あらすじ)
唐の玄宗の開元年間のことである。
呂翁という道士が邯鄲(河北省、趙の旧都)の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの若者がやってきて呂翁に話しかけ、しきりに、あくせくと働きながらくるしまねばならぬ身の不平をかこった。若者は名を廬生といった。
やがて廬生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。陶器の枕で、両端に孔があいていた。眠っているうちにその孔が大きくなったので、廬生が入っていってみると、そこには立派な家があった。その家で廬生は清河の崔氏(唐代の名家)の娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となり、トントン拍子に出世をしてついに京兆尹(首都の長官)となり、また出でては夷狄を破って勲功をたて、栄進して御史大夫部侍郎になった。
ところが、時の宰相に嫉まれて端州の刺史(州の長官)に左遷された。そこに居ること三年、また召されて戸部尚書に挙げられた廬生は、いくばくもなくして宰相に上り、それから十年間、よく天子を補佐して善政を行い、賢相のほまれを高くした。
位人臣を極めて得意の絶頂にあったとき、突然彼は、逆賊として捕えられた。辺塞の将と結んで謀叛をたくらんでいるという無実の罪によってであった。彼は縛につきながら嘆息して妻子に言った。
「わしの山東の家にはわずかばかりだが良田があった。百姓をしておりさえすれば、それで寒さと餓えとはふせぐことができたのに、何を苦しんで禄を求めるようなことをしたのだろう。そのために今はこんなザマになってしまった。
昔、ぼろを着て邯鄲の道を歩いていたころのことが思い出される。あのころがなつかしいが、今はもうどうにもならない‥‥。」
廬生は刀を取って自殺しようとしたが、妻におしとめられて、それも果し得なかった。ところが、ともに捕らえられた者たちはみな殺されたのに、彼だけは宦官のはからいで死罪をまぬがれ、驥州へ流された。
数年して天子はそれが冤罪であったことを知り、廬生を呼びもどして中書令とし、燕国公に封じ、恩寵はことのほか深かった。五人の子はそれぞれ高官に上り、天下の名家と縁組みをし、十余人の孫を得て彼は極めて幸福な晩年を送った。やがて次第に老いて健康が衰えてきたので、しばしば辞職を願い出たが、ゆるされなかった。病気になると宦官が相ついで見舞いに来、天子からは名医や良薬のあらんかぎりが贈られた。しかし年齢には勝てず、廬生はついに死去した。
欠伸をして眼をさますと、廬生はもとの邯鄲の旅舎に寝ている。傍には呂翁が座っている。旅舎の主人は、彼が眠る前に黄粱を蒸していたが、その黄粱もまだ出来上っていない。すべてはもとのままであった。
「ああ、夢だったのか!」
呂翁はその彼に笑って言った、
「人生のことは、みんなそんなものさ。」
廬生はしばらく憮然としていたが、やがて呂翁に感謝して言った。
「栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり経験しました。これは先生が私の欲をふさいで下さったものと思います。よくわかりました。」
呂翁にねんごろにお辞儀をして廬生は邯鄲の道を去っていった。