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日記(2.9)

2025-02-09 11:17:46 | 日常
2025   2月9日  (日曜日)    晴
◆石破・トランプ会談が 

さて、これからの対米外交はうまくいくであろうか?
出だしはまずまずだ!石破さんの体系が大親分に見えるなあ~
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寒波は続く。
 体操教室に8時から10時まで「午前の部」に出かける。
 この体育館は冷たい!器具セットのお手伝い程度しか出来ないが
 自分の柔軟を終えて少し補助をする。

この教室も一緒にやって来た諸先輩は皆亡くなって一番の年配者は私だ。
20代後半から一時行けない時期もあったが50数年になる。
もうそろそろ退会に近い体になって来た、時期だなあ~。
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上毛新聞にあった。
 ▼萩原朔太郎にはふるさとの山をテーマにした詩がある。
 〈かなしければぞ、眺め一時にひらかれ、あがつまの山なみ青く、いただきは額(ひたひ)に光る〉
 1914年8月に作られた「山頂」である
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 ▼末尾に「吾妻ニテ」と注釈があるが、どの山を指すのかは分からない。
  詩は〈夏はやおとろへ、山頂(いただき)は風に光る〉と結ばれる。
  読者が思い描く山頂の姿はさまざまだろうが、心に涼風が吹きわたるような気がする
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 ▼登山者のあこがれと言えば、3千メートル級の名峰が連なる日本アルプスだろう。
  英国人の鉱山技師ゴーランドが1881年に名付け、
  日本山岳会の初代会長を務めた小島烏水(うすい)が
  飛騨山脈を北アルプス、木曽山脈を中央アルプス、明石山脈を南アルプスと呼んだ
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 ▼美しい山々へのあこがれからか、
  日本各地にはたくさんの「ご当地アルプス」があるらしい。
  多くが市街地に近い標高数百メートルの低山で、
  ピークをつなぐ縦走ができたり、アルプスを思わせる岩場があったりする
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 ▼本県には神成山(かんなりやま)を中心とした「富岡アルプス」
  鳴神山や吾妻山(あづまやま)など10キロ以上を結ぶ「桐生アルプス」があり、市民の憩いの場になっている
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 ▼時間に余裕をもって下山できるため、帰りに温泉やグルメを楽しめるのも魅力だ
  ただ低山とはいえ、落ち葉に隠れて道が分かりにくかったり、
  すべって転倒したりする恐れもある。
  出かける際は入念な準備と登山届の提出をお忘れなく。
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メモ
萩原朔太郎詩集『宿命』(昭和14年=1939年刊)より
(萩原朔太郎<明治19年=1886年生~昭和17年=1942年没>)

 口語による散文詩が日本の現代詩に確立・定着したのは
 三好達治(明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没)の
 『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)の収録諸編であり、
 当時の三好はボードレール晩年の散文詩集『巴里の憂鬱』の
 初の全訳者で、抒情詩人のイメージが強い三好達治は
 実際は非常に複雑な指向性を備えた詩人であり、
 『測量船』も当時にあっては実験的なモダニズムの詩集でした。

 三好が直接師事した詩人は室生犀星と萩原朔太郎ですが、
 あまり読まれない萩原朔太郎の散文詩も見落とせないものです。
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 萩原は「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」とさまざまに呼んでいた
 散文断章集を大正11年(1922年)刊の『新しき欲情』を皮切りに生涯に4冊発表しましたが、
 昭和14年(1939年)刊の自選詩集『宿命』(創元社・創元新書)では既発表の抒情詩70編とともに、
 単行本未収録の新作5篇を含む散文断章から70編を散文詩として再録しました。
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『宿命』は萩原生前に刊行された最後の詩集となったことでも収録された
 散文詩70篇は萩原の詩業の遺作的な位置づけができる、
 再録選詩集以上の意義を持っています。
 萩原は従来散文詩は書かない、
 むしろ口語自由詩の発展の上では散文詩には反対していた。

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 詩人でしたし、『宿命』ももともと散文詩として書かれたものではない。
 断章を改めて散文詩として選出したものですから事情はやや特殊なのですが、
愛弟子の三好を始めとする当時の若い世代の散文詩に触発されて既発表の散文断章集から
 萩原自身の基準で散文詩と言えるものをまとめたのが『宿命』収録の散文詩であり、
 改めて読者に散文詩として読んでもらいたいという意図からも萩原自身が愛着と自信を持つ断章が
 選出されているので、萩原にとっての散文詩観をくみとることもできます。
 まずボードレール風の(つまりポー的でもある)奇想による1編をご紹介します。
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「死なない蛸」 萩原朔太郎  

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。
 地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。
 そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ
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 そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、
 おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。
 どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。
 まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、
 今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。
 少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。
 外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。

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 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。
 曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。
 そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。
 蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
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 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、
 尚ほ且つ永遠に"そこに"生きてゐた。
 古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。
 永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――
 或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
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◆凡人には・・理解しにくいなあ~!
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