暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

こいしつ 成澤城①(旧江南町)

2018-03-02 23:48:33 | 城館跡探訪
今回は、旧江南町の上杉氏系城郭、成澤城について、付近の地形なども含めて、

しつこい感じで歩き回って、調査してみました。


わたしが成澤城に行ったのは、1984年頃の秋だったと記憶しています。



成澤城跡は、現在、旧江南町の静簡院一帯です。

荒川氾濫原の低地に半島状に突き出した、高度のある段丘上の先端部分にあります。

同じ台地上には、県道11号線沿いに常安寺館、塩館があり相互の連携関係があったと推察されます。

特に、台地の先端に強力な軍事的機能を持った成澤城を置いたのでしょう。

写真は1984年頃の静簡院境内、本堂裏手に残る土塁です。




当時、撮影したのは、この写真2枚でした。フィルムの時代という物質的制約とともに、行って満足したということも

あったのだと思います。

今回は改めて、調査にチャレンジします。

調査日は、2018.01.27です。


1月22日の大雪の名残が残る旧江南町。成澤城跡静簡院前に着きました。

成澤城のある江南台地の北側直下には、和田吉野川が流れて江南台地と氾濫原低地との間をはっきりと区画しています。




江南台地上にも小河川が流れ、台地上では谷は小規模の河岸段丘を形成し、段丘上部は広く水田としての利用が進む一方で、

台地辺縁に行くにしたがって、谷は深く削り込まれ、深い谷を形成しています。








成澤城跡静簡院周辺はこのような地形を利用して作られていると思われます。


それでは静簡院の様子です。







解説板は新しいものに換わっていますね。

早速、遺構の残る寺の裏に回ってみます。

奥津城、上杉憲盛の墓所です。





本堂の裏に行くと、土塁があります。
















櫓台跡と考えてよいのでしょうか、それとも、虎口を形成していた土塁の一部でしょうか。





本堂裏には浄閑寺跡の石垣が現存しているというので、探しましたが、どうもこれのようですね。







さて、わかりやすい遺構部分についてはここだけのようですが、よく観察すると、上の土塁は、低いながらも

墓苑の裏に続いております。





雪で足元がだいぶ悪いです。



わかる範囲では、墓苑の裏にも50mほどは土塁があります。浅い溝もあるようで、どうも空堀跡のようです。

雪に隠れてドロボウ草がひどいです。










この土塁は、この辺りで分岐しているようですね。






成澤城にはいくつかの郭があったのでしょう。

つぎは、静簡院前に回って見ましょう。

(つづく)

塩館跡 (旧江南町)

2018-03-02 15:11:12 | 城館跡探訪
本日は、旧江南町(現、熊谷市)にある塩館についてご紹介いたします。

塩館は県道11号線沿い、塩八幡神社の後方にある居住者不明の館跡で、『埼玉の館城跡』には某館と記載されています。

地理的には常安寺館の斜向かいにあると言ってもいい館跡です。

山林内に残されたL字型の土塁と空堀が有名ですが、案内人がいないと分かりにくい場所にあります。


1985年頃の塩館の土塁と空堀


上の写真は1985年頃の塩館の、虎口付近から土塁、空堀を撮影したものです。

このころは、周囲の土地利用が行われており、館跡内部も比較的風通しのいい状態でありました。

この時は、アクセスに常安寺館の前の細道に入って、左折。あとは一直線に館跡まで突き進んだ記憶がありました。

塩館の周囲は、30年ほどの間に大分開発が進んで、新興住宅地などもできており、今回の調査では到達するのに

苦労しました。

そこで、ここでは塩八幡神社裏からアクセスする方向でご紹介します。

調査は2018.02.07及び02.09に行いました。








塩八幡神社は、かつて近隣の村々の崇敬を集め、参拝者用の宿があるなど栄えました。

これは実際に塩八幡に泊りがけで参拝したという祖母から聞いた話です。

いまでも、神社前の商店から、かつての繁栄の雰囲気を感じ取ることができます。


さて、塩八幡の境内を抜けて裏道に回るといきなりこんなものが現れます。





大概の探訪者はこの風景を見てあきらめてしまうことでしょう。

入手できるデータからは普通に考えたら、塩館はこの中にあるようにしか思えないからです。

正直、かつてはこの付近はラブホが多く、館跡探索の障害にしかなりませんでした。私も、一度挫折したクチです。

まず、このラブホ廃墟はスルーして、東に向かって少々歩きます。すると、左側の山林が切れて、太い樹木が

まばらに生えた平場が現れます。






やや北に傾斜のあるその平場をそのまま北に向かって入っていくと、20mほど

入った辺りで、土塁と空堀が現れます。

まず、館跡入り口の辺りから見ていきましょう。





館跡入り口には細い小道がついており、昔ほど、きれいではないものの、比較的足元は安定しています。





上の写真は虎口と土橋の遺構です。

山林利用が盛んであった1985年頃と比べると、落ち葉の堆積ではっきりとわかりにくくなっています。

わかりやすくするために、角度を変えて撮影してみます。





上の写真の方が、土橋と虎口のがわかりやすいかもしれません。

郭内部からも土橋と虎口を撮影しました。



この方が、わかりやすいでしょうか。



さて、郭内部の様子です。


虎口付近より南を見る




虎口付近より郭内部正面





郭内部は何が何だかわからないようなやぶです。

夏場はちょっと踏み込めないでしょうね。


それでも、虎口から北側を見るといくらか遺構が見やすいです。写真右側にあるのは内側から見た土塁です。





館内部は北に向かって緩やかに傾斜しております。

北側は大きな急斜面になっています。下に、何かあるように見えますが、本当に足場はありません。






次に、外の平場に出て、外周を見ます。まず、東側にある長い土塁です。











下の2枚は東側土塁の南端付近です。丁度この辺りは、先ほどのラブホ廃墟の敷地と重なる部分があるようで、

鉄柵の残骸がうるさい感じですが、南側土塁も見て見ましょう。

南側土塁空堀曲折部分






南側土塁












南側土塁の西端




里山にある城館跡保存や調査にとって、住民の林野利用と決して無縁ではありません。

過剰な開発は城館跡を破壊してしまいますが、一方で、長期間にわたる放置も、現況を著しく見にくくしてしまい、

遺構の把握を困難にします。非常に難しい問題だと思います。