今回は、旧江南町の上杉氏系城郭、成澤城について、付近の地形なども含めて、
しつこい感じで歩き回って、調査してみました。
わたしが成澤城に行ったのは、1984年頃の秋だったと記憶しています。

成澤城跡は、現在、旧江南町の静簡院一帯です。
荒川氾濫原の低地に半島状に突き出した、高度のある段丘上の先端部分にあります。
同じ台地上には、県道11号線沿いに常安寺館、塩館があり相互の連携関係があったと推察されます。
特に、台地の先端に強力な軍事的機能を持った成澤城を置いたのでしょう。
写真は1984年頃の静簡院境内、本堂裏手に残る土塁です。

当時、撮影したのは、この写真2枚でした。フィルムの時代という物質的制約とともに、行って満足したということも
あったのだと思います。
今回は改めて、調査にチャレンジします。
調査日は、2018.01.27です。
1月22日の大雪の名残が残る旧江南町。成澤城跡静簡院前に着きました。
成澤城のある江南台地の北側直下には、和田吉野川が流れて江南台地と氾濫原低地との間をはっきりと区画しています。

江南台地上にも小河川が流れ、台地上では谷は小規模の河岸段丘を形成し、段丘上部は広く水田としての利用が進む一方で、
台地辺縁に行くにしたがって、谷は深く削り込まれ、深い谷を形成しています。



成澤城跡静簡院周辺はこのような地形を利用して作られていると思われます。
それでは静簡院の様子です。



解説板は新しいものに換わっていますね。
早速、遺構の残る寺の裏に回ってみます。
奥津城、上杉憲盛の墓所です。


本堂の裏に行くと、土塁があります。







櫓台跡と考えてよいのでしょうか、それとも、虎口を形成していた土塁の一部でしょうか。

本堂裏には浄閑寺跡の石垣が現存しているというので、探しましたが、どうもこれのようですね。


さて、わかりやすい遺構部分についてはここだけのようですが、よく観察すると、上の土塁は、低いながらも
墓苑の裏に続いております。


雪で足元がだいぶ悪いです。

わかる範囲では、墓苑の裏にも50mほどは土塁があります。浅い溝もあるようで、どうも空堀跡のようです。
雪に隠れてドロボウ草がひどいです。



この土塁は、この辺りで分岐しているようですね。


成澤城にはいくつかの郭があったのでしょう。
つぎは、静簡院前に回って見ましょう。
(つづく)
しつこい感じで歩き回って、調査してみました。
わたしが成澤城に行ったのは、1984年頃の秋だったと記憶しています。

成澤城跡は、現在、旧江南町の静簡院一帯です。
荒川氾濫原の低地に半島状に突き出した、高度のある段丘上の先端部分にあります。
同じ台地上には、県道11号線沿いに常安寺館、塩館があり相互の連携関係があったと推察されます。
特に、台地の先端に強力な軍事的機能を持った成澤城を置いたのでしょう。
写真は1984年頃の静簡院境内、本堂裏手に残る土塁です。

当時、撮影したのは、この写真2枚でした。フィルムの時代という物質的制約とともに、行って満足したということも
あったのだと思います。
今回は改めて、調査にチャレンジします。
調査日は、2018.01.27です。
1月22日の大雪の名残が残る旧江南町。成澤城跡静簡院前に着きました。
成澤城のある江南台地の北側直下には、和田吉野川が流れて江南台地と氾濫原低地との間をはっきりと区画しています。

江南台地上にも小河川が流れ、台地上では谷は小規模の河岸段丘を形成し、段丘上部は広く水田としての利用が進む一方で、
台地辺縁に行くにしたがって、谷は深く削り込まれ、深い谷を形成しています。



成澤城跡静簡院周辺はこのような地形を利用して作られていると思われます。
それでは静簡院の様子です。



解説板は新しいものに換わっていますね。
早速、遺構の残る寺の裏に回ってみます。
奥津城、上杉憲盛の墓所です。


本堂の裏に行くと、土塁があります。







櫓台跡と考えてよいのでしょうか、それとも、虎口を形成していた土塁の一部でしょうか。

本堂裏には浄閑寺跡の石垣が現存しているというので、探しましたが、どうもこれのようですね。


さて、わかりやすい遺構部分についてはここだけのようですが、よく観察すると、上の土塁は、低いながらも
墓苑の裏に続いております。


雪で足元がだいぶ悪いです。

わかる範囲では、墓苑の裏にも50mほどは土塁があります。浅い溝もあるようで、どうも空堀跡のようです。
雪に隠れてドロボウ草がひどいです。



この土塁は、この辺りで分岐しているようですね。


成澤城にはいくつかの郭があったのでしょう。
つぎは、静簡院前に回って見ましょう。
(つづく)