今回は、用土城への再訪問についてレポートいたします。
調査日は、2018.01.29です。
今回もしつこく絡んでみたつもりなのですが、なかなか絡む余地が少なかったです。
前回、訪問は1985年頃のことでした。
当時はこのような状況でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/7e/3d8885e689530209bf5cc2dc834c2c64.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/d1/3d394db3a3d1fedc91ffb60c5eb96ea7.jpg)
用土城は深皿を伏せたような、なだらかな丘の上にあります。
その丘の北東の隅にある、小さな公園は今も健在で、用土城の石碑もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/28/01df823746ef70c68be1191a32bc23f6.jpg)
正直、開発の波に耐えきれず、状況が大きく変化していると思ったのですが、そんなことも無く、
地元の人たちの努力で、守られているようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/99/24c1d8cb48e4ca503d95f55496ba3007.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/66/35f117d9cfa1a1b52d3e9d7367b0c743.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/9e/575609af3b8fe10edae123ad900b29c0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/dd/20336ad4ba1f51b2c891975bfdc327cb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/036b07b70a6d4ab03849ee8c1e08a532.jpg)
城と推定される範囲は広いので、遺構の存在を期待してしまうのですが、通りがかりの地元の人は
「この一帯が城跡だっつーんだけど、なんにも残ってねーな」とつれない返事です。
まあ、実際、わたしも資料を漁った結果、「何にも残って無さげ」だとは思っていましたけどね。
ススキの生えた土の道も、今やりっぱな舗装道路です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/9b/33d5c89326a0d5949df794525134eed9.jpg)
ここから私の無駄な抵抗の始まりです。
折角、丘の上に立ったのですから、斜面の状況くらいは観察しないとね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/93/ca234dac02873a0ee294d0290554b227.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/cd/196346a5322f389cee8aad660f3607ee.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/60/b02cb653cdedc2a8bb3c0fd997863ff4.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/69/09be64e97aed84935d0379a07d6e8f8e.jpg)
上の写真は、東側斜面の写真なのですが、城特有の一種の険しい表情が全くないのですね。
遠方、駐車場わきに土の盛り上がりがあったりしますが、残土を積んだもののように見えますね。すごく。
城址碑は丘の中腹にあるので、今度は丘の頂上に上がってみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/e2/a28ee7bb47ea627dbdada7ced4a17344.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/78/b3e9dc7162bb45058b478c90e62d8e7a.jpg)
いまでも、立派に農業が営まれているのはいいことです。
緩やかな坂をアッというまに登り切ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/de/a9f8249b1eddc9e932db41566ca00865.jpg)
頂上ということのほども無く下り坂です。
写真はその坂下から城跡を見上げて撮ったものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4c/14d349f4e5341facfabcdd8cf53b3b89.jpg)
丘のすそ、平地との接続部分には、一段下がった荒れ地があり、もともとが低湿地だった可能性をうかがわせています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1c/ef0cc1b02778be645eb04980f7fb981d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/f4/5a77cf4224da6b88e87f5925fb91d949.jpg)
直接に堀跡だと言えませんが、用土城の防衛機構というのは、こうした自然地理的条件の利用にあったのかもしれません。
さて、このまま大通りに出ては、調査が終わってしまうので、一度城址碑まで戻り、
今度は、かつて泥道だった道を南に走ります。
かつては用土城の南端にちょっとした林があっったので、遺構が残っているとすればその辺りだろうという読みです。
少し走ると水路がありました。
この付近がかつて林だった場所なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/93/281979180b6868ac69b3a3d3050886ea.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/85/2563a9840386464396a21c18368c5b0b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/82/5015e4381ee9dc62b9f86103c23a5e37.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/b1/55a33c54ecc79cb7c65fda16e1ee7e8c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/78/694732527131e5d390b8623a3805e5f2.jpg)
上の写真はいずれも、同じ水路を橋の左右から撮影したものです。
もし水堀があったとすれば、この堀などは有力な遺構の候補でしょうね。
この水路の脇に竹林があるのですが、その中に土塁状の盛り上がりがありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/56/cc3ea164290f36a6fb563819e9d36669.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/56/cc3ea164290f36a6fb563819e9d36669.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/57/e8c778bced58acdafe9e5896bdb4b50f.jpg)
城址碑のあった方が本丸でしょうから、外側に土塁、内側に水堀は防衛機構としては逆になるので、
すると、この水路は単なる水路なのか?などと思いました。
もう少し、城跡に付属した低地などを観察して、大胆な視点を打ち出したかったのですが、
そうそう、うまく行くものではないです。
調査日は、2018.01.29です。
今回もしつこく絡んでみたつもりなのですが、なかなか絡む余地が少なかったです。
前回、訪問は1985年頃のことでした。
当時はこのような状況でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/7e/3d8885e689530209bf5cc2dc834c2c64.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/d1/3d394db3a3d1fedc91ffb60c5eb96ea7.jpg)
用土城は深皿を伏せたような、なだらかな丘の上にあります。
その丘の北東の隅にある、小さな公園は今も健在で、用土城の石碑もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/28/01df823746ef70c68be1191a32bc23f6.jpg)
正直、開発の波に耐えきれず、状況が大きく変化していると思ったのですが、そんなことも無く、
地元の人たちの努力で、守られているようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/99/24c1d8cb48e4ca503d95f55496ba3007.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/66/35f117d9cfa1a1b52d3e9d7367b0c743.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/036b07b70a6d4ab03849ee8c1e08a532.jpg)
城と推定される範囲は広いので、遺構の存在を期待してしまうのですが、通りがかりの地元の人は
「この一帯が城跡だっつーんだけど、なんにも残ってねーな」とつれない返事です。
まあ、実際、わたしも資料を漁った結果、「何にも残って無さげ」だとは思っていましたけどね。
ススキの生えた土の道も、今やりっぱな舗装道路です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/9b/33d5c89326a0d5949df794525134eed9.jpg)
ここから私の無駄な抵抗の始まりです。
折角、丘の上に立ったのですから、斜面の状況くらいは観察しないとね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/93/ca234dac02873a0ee294d0290554b227.jpg)
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上の写真は、東側斜面の写真なのですが、城特有の一種の険しい表情が全くないのですね。
遠方、駐車場わきに土の盛り上がりがあったりしますが、残土を積んだもののように見えますね。すごく。
城址碑は丘の中腹にあるので、今度は丘の頂上に上がってみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/e2/a28ee7bb47ea627dbdada7ced4a17344.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/78/b3e9dc7162bb45058b478c90e62d8e7a.jpg)
いまでも、立派に農業が営まれているのはいいことです。
緩やかな坂をアッというまに登り切ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/de/a9f8249b1eddc9e932db41566ca00865.jpg)
頂上ということのほども無く下り坂です。
写真はその坂下から城跡を見上げて撮ったものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/4c/14d349f4e5341facfabcdd8cf53b3b89.jpg)
丘のすそ、平地との接続部分には、一段下がった荒れ地があり、もともとが低湿地だった可能性をうかがわせています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/1c/ef0cc1b02778be645eb04980f7fb981d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/f4/5a77cf4224da6b88e87f5925fb91d949.jpg)
直接に堀跡だと言えませんが、用土城の防衛機構というのは、こうした自然地理的条件の利用にあったのかもしれません。
さて、このまま大通りに出ては、調査が終わってしまうので、一度城址碑まで戻り、
今度は、かつて泥道だった道を南に走ります。
かつては用土城の南端にちょっとした林があっったので、遺構が残っているとすればその辺りだろうという読みです。
少し走ると水路がありました。
この付近がかつて林だった場所なのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/93/281979180b6868ac69b3a3d3050886ea.jpg)
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上の写真はいずれも、同じ水路を橋の左右から撮影したものです。
もし水堀があったとすれば、この堀などは有力な遺構の候補でしょうね。
この水路の脇に竹林があるのですが、その中に土塁状の盛り上がりがありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/56/cc3ea164290f36a6fb563819e9d36669.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/56/cc3ea164290f36a6fb563819e9d36669.jpg)
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城址碑のあった方が本丸でしょうから、外側に土塁、内側に水堀は防衛機構としては逆になるので、
すると、この水路は単なる水路なのか?などと思いました。
もう少し、城跡に付属した低地などを観察して、大胆な視点を打ち出したかったのですが、
そうそう、うまく行くものではないです。