暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

こいしつ 東城(旧妻沼町)2

2018-03-11 17:55:07 | 城館跡探訪
次に東城の2つ目の城郭遺構といわれている場所を見て見ましょう。

ここでは、便宜上第二東城と呼ばせていただきます。

それは①で示した八幡大神社裏の農地、福川に流れ込んでいる北河原用水路脇にあります。

この遺構は、北河原用水路掘削のおりに東西に分割されてしまったとさています。、

西側には西城神社があります。

妻沼には西城跡があり、東城のある上須戸地区に隣接する西城地区、萬有製薬工場の

敷地が城跡になります。

さて、本題の第二東城ですが、水路脇のあぜ道を通っていきます。



奥に土塁が見えますが、この背後には、森を挟んで、八幡大神社のゲートボールがあります。












ここのあぜ道はとにかくドロボウ草(タチアワユキセンダングサ)が一面に生えて、体中ドロボウ草だらけです。



ここが郭に相当するのでしょう。





次に西側の西城神社周辺を見ましょう。

西城神社は北河原用水路を渡ってすぐの道沿いにあります。

こじんまりとしていますが、神社らしい神社です。










神社の社殿は小高くなっております。ここは第二東城の土塁に相当すると思われます。










社殿の背後まで見てみます。



あるいは櫓台なのでしょうか。

かなりしっかりとしております。

最後に鰐口を撮影しました。




次は、第三東城の遺構です。

(つづく)

こいしつ 東城(旧妻沼町)①

2018-03-11 04:28:14 | 城館跡探訪
今回は、斎藤実盛が築城したとされる「東城」について紹介いたします。

調査日は、2018.01.31及び2018.02.04です。

東城は、斎藤実盛の築城と地元では伝承されていますが、実際には、ちがうでしょう。

東城は一つの城ではなく、年代を追って増築された可能性が高いようです。

福川沿いの八幡大神社を中心に、隣接した農地、そして道を挟んで向かい側の民家の後方の農地に、

城郭遺構が残されている複合型の城郭です。

八幡大神社の遺構は農用の堀とする説もありますが、周辺の状況から見て、自然堤防を活かした城郭と

判断してよいと思います。

では早速、八幡大神社を中核とする遺構から訪ねてみたいと思います。


写真は、1985年頃、八幡大神社を撮影したものです。



このころは、八幡大神社も人手が入っているようで、精気があります。

周囲の堀跡等も撮影したのですが、今回はデータ化し損ねました。


さて、まず、東城を全体的に見て見ましょう。

東城の入り口付近、東側からの遠望です。





東城が小高い自然堤防上にあるのがわかります。

東城そのものは半分以上が集落になっており、一種の環濠集落のようにも見えるわけです。



現在、平地の館城跡の水堀は、U字溝が埋め込まれていることが多いですが、ここも同様です。









さて、この脇道が大手口だと思っていいと思いますが、入り口の民家に何か迫力を感じます。

遺構は決してわかりやすいとは言えませんが、自然堤防直下の低地を見て、堀跡との確信を深めていきます。



さて、集落内はかなり荒廃しており、異様な雰囲気です。











八幡神社に到着です。鳥居付近はあまり変わっていないように見えるかもしれませんが、内部の荒廃が、訪れる

人の減少を示しています。



八幡大神社の社務所です。ここは縁日などにはまだにぎわうのでしょうか。

節分後に行ったので、しめ飾りが新しくきれいです。














最後の写真は、本丸で、ゲートボール場になっていますが、もう使われなくなって久しいようです。

このゲートボール場の背後に土塁があります。

神社周りの遺構を撮影します。

さて、これは鳥居付近の空堀跡です。



そして境内内から撮影した土塁と空堀です。



上の写真でもお分かりかと思いますが、とにかく竹林の状況がひどすぎますね。


次に、境内周囲に残る土塁を撮影していきます。












隣接する民家裏にも土塁状のものがあります。




再び空堀跡









竹林を整理しなければ、折角の遺構も、何が何だかわからないという感じです。


城外に出て、南側から遠景を撮影します。








城外に残るあぜ道ですが、これは土塁と空堀跡のようです。

自然堤防を区切る、水堀と土塁です。






つづく