本日は、本ブログ本来の趣旨に則って、1980年代の写真から、忍三郎館跡について書きたいと思います。
忍三郎館跡を訪ねたのは1985年春の頃です。
忍氏は成田氏の滅ぼされるまで、忍城本丸の北方に居館を構えていましたが、
忍城が築造されたために、その遺構は全く失われてしまったか、残存していても、
忍城の遺構と見分けがつかなくなっていると思われます。
忍氏の居館があったと伝えられるのは、医王山遍照院です。
忍城域はさすがに広大で、市内には水堀跡がたくさん残されています。
忍三郎館跡付近もその例外ではなく、水路がありましたが、それが忍氏館跡にどのような関連をもっていたのか
わかりませんでした。当時の判断としては、無関係という判断でした。
遍照院境内にも土塁、空堀のような遺構らしいものはありませんでした。
ですが、忍氏に関連する遺跡はこれだけではありません。
行田市持田地区、忍川沿いに菅谷八幡神社という神社があり、ここは忍氏が祀ったと伝えられています。
1980年代中頃はうっそうとした社殿の森と、周囲を水堀に囲まれた、小社なれども威厳のある神社でした。
この記事を書くにあたって、グーグルマップで周辺の状況を確認したところ、樹木も減って、
村はずれの忘れられた神社化していました。当時とあまりに変わってしまっていて驚きました。
私が訪ねた当時は、入り口附近に古い料理屋があったと記憶しておりました。
参道には何本か桜の木もあり、恐らく、往時は、それなりに、参拝者がいたのではないかと思います。
形あるものはいつか失われるのが世の習いとはいえ、何か寂しく思われます。
また、昔の面影をこうして紹介するところに、当ブログの使命があるのだと、改めて感じた次第です。
忍三郎館跡を訪ねたのは1985年春の頃です。
忍氏は成田氏の滅ぼされるまで、忍城本丸の北方に居館を構えていましたが、
忍城が築造されたために、その遺構は全く失われてしまったか、残存していても、
忍城の遺構と見分けがつかなくなっていると思われます。
忍氏の居館があったと伝えられるのは、医王山遍照院です。
忍城域はさすがに広大で、市内には水堀跡がたくさん残されています。
忍三郎館跡付近もその例外ではなく、水路がありましたが、それが忍氏館跡にどのような関連をもっていたのか
わかりませんでした。当時の判断としては、無関係という判断でした。
遍照院境内にも土塁、空堀のような遺構らしいものはありませんでした。
ですが、忍氏に関連する遺跡はこれだけではありません。
行田市持田地区、忍川沿いに菅谷八幡神社という神社があり、ここは忍氏が祀ったと伝えられています。
1980年代中頃はうっそうとした社殿の森と、周囲を水堀に囲まれた、小社なれども威厳のある神社でした。
この記事を書くにあたって、グーグルマップで周辺の状況を確認したところ、樹木も減って、
村はずれの忘れられた神社化していました。当時とあまりに変わってしまっていて驚きました。
私が訪ねた当時は、入り口附近に古い料理屋があったと記憶しておりました。
参道には何本か桜の木もあり、恐らく、往時は、それなりに、参拝者がいたのではないかと思います。
形あるものはいつか失われるのが世の習いとはいえ、何か寂しく思われます。
また、昔の面影をこうして紹介するところに、当ブログの使命があるのだと、改めて感じた次第です。