暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

河原氏館跡(行田市)

2018-03-28 17:54:22 | 城館跡探訪
本日は、河原氏館跡について書きたいと思います。

河原氏の名を高からしめたのは、頼朝の配下で勇猛をもって鳴る太郎高直、次郎盛直の河原兄弟の

生田の森の戦いにおける討死によるものであります。

観福寺境内が、彼らの館跡といわれ、国史跡として高名な河原氏供養板石塔婆、いわゆる「南河原石塔婆」が

安置されております。


館跡には水堀や、わずかながら土塁などが残っているということですので、今回は、こうした遺構の確認に行きました。

実は、1987年頃、一度訪問したことがありまして、その際には、塔婆の拓本をとらせていただくという、

今ではありえないようなご厚意にあずかりましたが、館跡としてきちんと水堀を観察致したわけではなかったので、

今回は改めてそうした部分も確認したいと思いました。

調査日は2018.02.04です。


さて、当該地は利根川の氾濫原にできた、自然堤防上にあり周囲は広大な田園地帯になっております。

観福寺門前です。







当日は、良い天気で午前中に訪ねたということもあって、空の色がきれいでした。

境内には石塔婆の解説板があり、観福寺の由緒もわかります。




板石塔婆の納められているお堂です。私が訪ねた当時も厳重に保管されていましたが、現在は、保管はさらに厳重に

なっていると聞いています。





さて、観福寺の外周を歩いてみましょう。





上は、通りに面した観福寺前面の写真です。館跡があるのは、自然堤防上ですが、この自然堤防は周囲と

かなりの高低差があります。お寺の境内敷地はさらに一段高くなっております。

境内東側に回ります。



お寺を囲む水堀は、現在、U字溝で固められてしまっています。

境内内から水路が出ています。



境内の中から流れ出た水路は、隣接する水田の中を走っています。






上の土壇がどのようにして形成されたのかは不明です。

あるいは土地整理事業の過程で残った場所である可能性もあるからですが、境界を示すりゅうのひげが

植えられていることから、特に何らかの意味を持っている・・・、遺構の一部かも知れないと考え、

念のため撮影いたしました。



観福寺裏です。







土塁状のものがあることが確認できますが、フェンスや光の関係でかなり見づらいですね。


直進すると、水堀が現れます。



先ほど、境内内から出ていた水堀はこの堀とつながっているようですね。

かなり深い堀です。







西側にもこの深い堀が走っています。




西側から見た観福寺です。



西側の堀は墓地内を走って南側に出ていました。




深い水堀跡が特長的な館跡だと思います。

中条氏館跡とも自動車で10分もかからない場所にあり、深い水堀とも相まって、雰囲気的に似ているなと思いました。