私の履歴
1941年生まれ 、中学(普通部)より慶應生、1960年医学部入学、当時の安保闘争に加わり、1961年慶應義塾大学日吉キャンパス自治会後期委員長、1962年同大学生協組織部に入り、一時四谷支部常任理事、1965年慶應大学学費値上げ反対闘争で全学副闘争委員長をし、全国初の大学バリケード闘争、全学集会での方針決定という全員参加の民主化闘争をし、自主講座運動に加わる。1966年慶應義塾大学医学部卒、41青年医師連合慶應支部長、小児科医師連合慶應支部長、小児科学会評議員、同学会規約改正委員を務める。
その間、高校時代は、陸上ホッケー部、医学部ではアイスホッケー部で運動をし、主将を勤め、インターン時代はコーチをした。東日本医学部体育大会アイスホッケー部門優勝。東京都アイスホッケーリーグ3部では3位だった。
卒業後、青医連運動に加わり、研修協約闘争に敗北。1967年慶應病院小児科に入局。1968年国立埼玉病院小児科に勤務。1982年同病院小児科医長。1984年吹上共立診療所所長。2010年11月より堀ノ内病院勤務。2012年3月より練馬区にあるすずしろ医療生協すずしろ診療所所長となる。内科、小児科、心療内科、在宅支援医療をしております。
その間、小中学生のインフルエンザワクチン廃止運動(成功)、BCG反対運動(小中学生は廃止、今は乳児早期だけとなる)、日本脳炎ワクチン反対運動、森永ヒ素ミルク中毒のこどもを守る会を支え、東京森永告発に参加し、森永製品ボイコット運動をし、「光協会」という被害者救済機関を作ることで森永側と和解。また未熟児網膜症被害者の原告側鑑定と証人になり、一部勝訴したものの最高裁で敗訴。医療過誤訴訟では原告側の鑑定人と証人になり、今も続く。
医療でのX線撮影のずさんさから、医療被曝低減運動を起こし、小中学校の胸部X線検診廃止運動に成功。その縁から、チェルノブイリ子ども基金に誘われ、現地にも2回訪問。今は顧問となる。今年の3月11日の原発事故後、日本の子どもも救済しようと、「未来の福島こども基金」代表。特に内部被曝の防止を目指し、飲食品の放射能測定所を支援。測定を開始し、10月からはホールボディカウンターも稼働予定。
小児科医としては、大学での研究を拒否し、臨床ひと筋できて、総合小児科を目指し、こどもの病気全般(外科治療を除く)の小児医療をしてきました。また、診療所開業後、一般内科、心療内科(精神科ではない)を勉強し、催眠療法も手掛ける。
良い医師を知っていて、紹介できることも医師の腕の内というのがモットーでしたが、直接の友人、知人は定年で、今は探すことが難しくなりましたが、時間さえ頂ければ探します。
大人の方へ、癌と宣告されたら、癌研究所有明病院のセカンドオピニオン外来を受診することをお勧めします。癌治療には、手術、化学療法(抗がん剤)、放射線療法とその組み合わせがあり、最善を教えてくれます。 以上。