新たな社会主義を求めて
新たな社会主義
私は今まで、世界の動きを少ししか見ていず、取り残されていました。
ところが最近、ある遺伝子学者の友人から、日本では科学ジャーナリズムが育っていず、世界から10年は遅れていると言われて驚きました。
そこへコロナウイルス肺炎のパンデミックが起きました。私の持っている知識と蔵書から、すぐに分析してブログに載せました。2020年2月だったと思います。今でもそれが通用します。そこへ斎藤幸平の「人新世の資本論」と「未来への大分岐」です。その流れでジジェクの「パンデミック」、ボヌイユの「人新世とは何か」、その他に「暴力と不平等の人類史」、「反穀物の人類史」、「サピエンス全史、上下」、「暴力の人類史」、「資本主義と危機」、「なぜ脱成長なのか」、「人体600万年史」などで、遅れているのに気づきました。
そこで考えたのは、人は本来の体の働きを発揮していれば、病気をしないのではないかということです。けがは別です。特に感染症も、がんも生活習慣病も精神病もです。それで医療はコモンではないと思っていました。感染症は、すべて動物由来であり、動物を飼育したり、売買するようになって生じたものです。野生動物にうかつに近づいてはいけません。
がんも生活習慣病も、精神神経免疫学から言うと、ほとんどが現代病であり、なりやすい遺伝子とそれを発現させる環境、特にがんなら発がん物質などや、それとストレスです。
そしてそれに加えて、じっと我慢する性格はがんになりやすく、仕事人間のように、仕事に命を懸けているように働き続けるタイプは、心臓血管病つまり、心筋梗塞になりやすく、
高血圧があると脳卒中になりやすくなります。これらの病気の治療を開発しようとするよりも、発生を減らすことの方が早いのです。
だから国によって、つまり社会システムによって発生する病気が違います。旧社会主義国は、社会主義体制をとっていた時と、社会主義をやめて以後では病気の発生頻度が変化しているはずです。今でも、自給自足の生活をしている民族はがんや生活習慣病が少ないはずです。遺伝子病も含めて先天性疾患の発生頻度は、ほとんど変化していません。
医療は文化によって変わります。それはその社会によって変化します。狩猟と採集の世界では、医療はコモンではなく、電気と同じく、現代社会になってコモンとなってきたのではないかと思います。世界の歴史の見直しが必要だと思います。
そこへ世界10月号の「戦争と奴隷制のサピエンス史」三宅芳夫の文でした。「地球生態系との関係(地球温暖化)で「人新世」という概念が提唱され」、「人類史規模の社会システム転換の必要性が認知されつつある」と言います。「大転換」が必要なことは疑う余地がないと。
つまり地球温暖化の炭酸ガス原因説にはふれず、地球の生態系が壊されることにだけ触れています。政治的に避けているのかも知れません。人が原因の「人新世」ということには、結果的に賛同しかねますが、これが世の中の見直しが始まるきっかけになりました。
斎藤幸平の言う脱成長のコミュニズムをはじめ、サンダースやいろいろな形で社会主義が提唱されています。「21世紀の資本論」を書いたピケティも社会主義者に転換したと言われていましたが、「来たれ、新しい社会主義」が出ました。その本の冒頭と、奴隷制の論文、それに「世界」の三宅論文を読むことをお薦めします。
三宅は、「資本蓄積最大化の公理(つまり資本主義)を廃棄」し、「組織的に独占された暴力を最小化するシステム」が人類最後の希望であると述べています。
今や、世界の先進国(北)内の貧困層(南)と発展途上国の多く(南)が、分断されています。かっての社会主義諸国や植民地から独立した諸国は、格差社会と貧困層、内戦などで多くの難民を出して難民社会を形成しています。
私は、コロナによって気づかされました。パンデミックの起きる世界的な基盤、つまり格差社会と貧困層の拡大、福祉社会の削減が、世界中に渦巻いていたのです。その中で、その程度が比較的少ない日本や東アジア諸国に、コロナ感染が少なかったのです。
中華文明は奴隷人口が顕著に少ないと言いますが、日本はどうなのでしょうか。
債務により縛られる労働者も債務奴隷でありますから、遊郭の遊女たちは奴隷でした。それが東欧の旧社会主義諸国で広がっていると言います。
狩猟と採集の社会、今でも残っているアフリカのブッシュマン族やアマゾンのピダハン族の社会では、戦争も奴隷制もない社会ですし、病気も少なかったのです。
農耕と栽培、そして酪農の社会では、奴隷制と戦争と病気は切り離せません。そのつながりを、文明史、人類史として取り上げられてきたことに、私は気づかされたのです。
これは急進啓蒙だけでは不十分です。多くの学者たちは、どうしたらよいかを口にせず、格差社会と貧困層の拡大をいうだけです。アメリカの社会学者デューイの社会分析を知り、それを実践したのがカストロでした。現代のカストロは、どこにいるのでしょうか。
私は、慶応の学費闘争の原点に戻り、直接民主制による政治の決定、そのためには自主的な教育・自主講座や高等教育の普及、が必須と考えます。すべての重要事項の住民投票制、市町村の長だけでなく、首相の公選制など。
沖縄が県知事選、衆参議員選ではオール沖縄側が勝つのに、地方自治体では負けるのは、自分の生活に密着した自治体でのことでは投票行動が違うのだと考えます。
安倍政権が長く持続したのは、浮動票が投票されない状況、つまり焦点をぼかして選挙すること、固定票だけで戦う手法をとったのだという評論家もいました。
そしてウクライナ問題では、世界10月号のムスト論文をお読みください。