黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

日本脳炎ワクチンの役割は終わった

2017-03-30 18:53:15 | 予防接種
 前記の記事に書きました医学雑誌に載せてもらった記事を載せます。
 私の多分唯一の学術雑誌への論文です。「小児科」2006年3月号です。岡部信彦さんのご好意でした。

  日本脳炎ワクチンの役割は終わったか            
はじめに
  日本脳炎は、日本で発見されたことから日本脳炎と命名されたが、アジアで広く見られる病気で、主に豚で増殖され、コガタアカイエカが媒介してヒトに感染する。わが国においては大正時代(1912年)の大流行が日本脳炎と推定されており、1935年にウイルスが分離された。現在では1億2800万人の人口あたり、一桁の発病者で、致命率は15%以下、後遺症も30%となっている。
 わが国における1960年代のポリオの流行時には、不活化ワクチンは流行を阻止できないところから、当時国内では認可の段階に至っていなかったポリオ生ワクチンを緊急に海外より輸入して流行がおさまった。日本脳炎は不活化ワクチンで、過去にはワクチンを接種していても罹患し、かつ死亡した人もいるし、ワクチン接種していないが、かからないか、かかっても脳炎を発病しない人も少なくない。日本脳炎のワクチンは、現代では神経系の副作用の出る人が脳炎発病者よりも多くなり、必要の無いワクチンになった、と著者は考える。
Ⅰ.どんな病気か
 1.感染経路
日本脳炎ウイルスは、ヒトとウマに脳炎を起こすことがある。ブタはウイルス血症をおこすが病気を起こさず、日本脳炎ウイルスの増幅動物であるとされている。種豚が妊娠中に日本脳炎ウイルスに感染すると死流産するので、種ブタにはオスにもメスにも不活化ワクチンまたは生ワクチンを接種している。日本脳炎ウイルスは、ヒトからヒトへは直接あるいは蚊を介して伝播することはない。
2.臨床症状
潜伏期間は6~25(一般に8~16)日で、典型的な症状は髄膜脳炎型であるが、脊髄炎型もある。多くは不顕性感染か、軽く夏かぜ程度で終わり、ごく一部が発病する。
3.発病率
感染してからの発病率は、100~1、000人に1人(国立感染症研究所感染症情報センター)というが、戦後の推定で2000人に1人となっている。小西らの研究によると1)、1995年都市部には10%の自然感染が発生しているが、この10年の発病者は一桁である。その後の疫学調査は行われていないが、現在では不顕性感染か、夏かぜ程度で終わり、脳炎の発病率は5000人に1人以下と推定され、確率の根拠が得られないほどに低下していると考えられる。
昭和10年(1935年)の大流行の時にロシア人が20人来日して、7~8人がかかり、2人死亡した。しかし、同行の日本人は誰もかからなかった。その理由として、流行地の日本人にはもう免疫ができている人が多く、日本脳炎のないロシア人は免疫をもっていないからであるというものであった。
戦後まもなく、日本が占領されて米軍が来た時に、沖縄の米軍人で日本脳炎に感染して抗体ができた人は2000人くらいおり、発病した人はその中の一人くらいしかいなかった。日本人はもっと少なかった。そこでSabinが沖縄の兵隊にワクチン実験を行った。規模は1、000~2、000人くらいで、注射した方は発病せず、しない方からは人が発病したという話である。2)
4.日本脳炎の発生も死亡も激減している
 日本では1912年(明治45年)の岡山県を中心とした流行2)3)が記録上わが国における初めての流行と言われる3)。類似疾患(エコノモ脳炎、流行性脳脊髄膜炎、鉛中毒)との鑑別が明らかにされたのが1924年(大正13年)の大流行(6、125人)で、患者数が5,000人を超える年(1935年、1950年)も4)、致命率が92%(1949年)の年3)もあった。戦争中は少なく、戦後再燃し、1948~1966年まで患者数は1、000人を超える状況が続いたが、1967年から三桁、1972年から二桁になり、1992~2000年までは一桁で年2~7人、そのうち15歳が1人で、あとは老人であった。1992~2000年までの死亡は2人の老人だけである。致命率は当初70%前後、その後50%前後、1950年以降は50%以下になり、1978年以後は30%以下、現在では15%以下になっている。この傾向は台湾、韓国でも同じで、流行のはじめは致命率が高く、しだいに減少し、流行がおさまる頃には大幅に低下していく。これはウィルスとヒトが適応し、共存の道をたどっているからであると考えられる。
1991~2000年の10年間の患者数は47人、死者6人で、この間、予防接種年齢の罹患者は1999年に15歳1人、死者0である。日本脳炎ワクチンが導入されたのは1965年で、接種は子どもだけであった。だから一般に、希望者を除いて、現在の56歳以上は受けていないはずである。また当時は接種率も低かった。1991年の日本脳炎ワクチン接種率は全年齢で37.8%という報告がある5)。 しかし、予防接種法の改正のあった1995年以降は日本脳炎ワクチン接種率は、1期目は80%を超えるようになった。一方、2期目は70%、3期目は50%をそれぞれ下回っている6)。
 発生時期は6月から9月までの夏場だけである。日本脳炎は北海道には存在しないし、東北地方も福島県を除き、ほとんど発生していない。
5.不顕性感染
旧厚生省は伝染病流行予測事業(現在は厚生労働省による感染症流行予測事業)の一環としてヒトの血清の日本脳炎ウイルス中和抗体の測定を続けている1)。その結果を見ると、1966年から1980年までの間で、年齢が高くなるに連れて抗体陽性率は50~90%としだいに上昇し、各年齢毎の抗体陽性率は15年間でほとんど変化していない。
 同事業による2000年の調査では、5~29歳と60歳以上の80%の人が抗体を保有しており、ほとんどの人は一生の間のどこかで不顕性感染し、抗体をもつようになっている。だが抗体をもたない人もかなり多く、それなのに発病する人がほとんどいないのは、日本人は日本脳炎に対する自然免疫も獲得免疫も成立し、免疫が低下した人だけが発病する病気となったものであると考える。
Ⅱ.日本脳炎ウイルスは減少しているが、まだ日本には存在する
 現在、ワクチン接種では産生されない抗NSI(日本脳炎ウイルス非構造蛋白質)抗体を測定する方法が開発されているが、まだ確立までにいたっていない。その結果では、1980年代で都市部は10%、農村部では20%の人がウイルスに自然感染しており、1995年でも都市部では約10%の人の自然感染が発生している可能性について述べられている1)。
 日本脳炎ウイルスの研究では、日本では1991年以前では遺伝子型3型であったが、1994年以降の分離された株は遺伝子型1型に変わっていることが発見された1)。このことから、以前は日本土着の日本脳炎ウイルスが主であったが、近年は東南アジアからのウイルスに変わったと森田らは述べているが、日本土着のウイルスが変異したのかは不明である。だが日本脳炎は増加せず、減少を続けているので、変異したウイルスに対する抗体産生能は変化していないと考える。
 ブタの中和抗体の調査では、まだまだ日本脳炎ウイルスが存在しているのも事実である。屠場に集まるブタの抗体およびウイルス分離は、その年の流行状況を反映するとみなされ、ブタの抗体陽性率が50%を超えるとヒトにも流行するといわれていた。現在は調査規模は縮小され、2000年には29道都県の調査であった。その結果は、沖縄県で5月には新鮮感染例が2頭確認され、7月には抗体保有率が100%に達した。その後北上し、7月には高知100%、三重、愛媛で50%を超え、8月下旬から9月以降、広島、静岡、兵庫、富山、千葉で抗体保有率が50%を超えた。日本脳炎の終わりの10月までに屠場で検査されたブタの80%以上に日本脳炎ウイルス感染が確認された県は、調査した29道都県中18県に及び、陽性県は全体で24県であった。しかし、同年の日本脳炎患者は7名であった1)。
Ⅲ.なぜ日本脳炎ウイルスがまだ存在するのに、日本脳炎患者が減少したか
 ブタの抗体調査、蚊の調査からは、ブタの日本脳炎ウイルスHI抗体の保有率、蚊の日本脳炎ウイルスの分離率の減少は見られるものの、まだ存在するのに、なぜ日本人の日本脳炎患者は激減したのか。日本脳炎ワクチンは子どもにだけ接種され、成人は希望者のみであり、接種率は1985年で30.9%、1986~1991年の間は31~40%で、1980年以前では40~50%くらいであった5)。1994年の予防接種法の改正で、1995年以降は接種が推進され、接種率が上がったが、2000年の接種率は0~4歳39%、5~9歳79%、10~14歳85%、15~19歳92%1)で、しかも成人には接種されていない。これはワクチンの成果だけとは言えない。
日本脳炎患者が減少した理由として渡辺1)は、コガタアカイエカからの検討で、①蚊の発生数が減少した、②蚊に刺される機会が少なくなった、③蚊の発生ピークが8~9月にずれた、④蚊(コガタアカイエカ)が日本脳炎ウイルスを保有しなくなった、の4点をあげている。
筆者は、環境の変化と平行して、日本人と日本脳炎ウイルスの適応関係が出来上がったために大幅に減少したと考えている。
 1.環境の変化
 a)人間の住環境の変化
  現代ではアルミサッシをはじめ建築様式の革新により、ときどき窓を開けて空気を入れ替える必要があるほどの密閉空間の家になった。そのため蚊が家の中に入る機会が激減し、人間の血を吸って繁殖(産卵)場所に戻ることも難しくなった。
 b)媒介動物の減少
もともとコガタアカイエカは、ヒトよりブタ、ウシ、ウマを好む。トリ、ブタ、ウシ、ウマは、ほとんど専業の酪農家が大量に飼育生産する時代になり、飼育場も清潔で閉鎖に近い状態となった。そして日本人の住環境から、媒介動物が大幅に減少し、ウイルスの繁殖動物の豚が、囲い込まれた。
c)媒介動物の住環境の変化
 水田の変化、農薬の使用、用水路のコンクリートによる隔壁化で水の流れが速くなり、淀みが少なくなる、など蚊の住む環境が変化した。媒介動物の住環境が変化して、蚊と媒介動物の接触が少なくなり、人間の住む場所に生息する蚊のウイルス保有が減少した。以上は、渡辺の説1)の裏づけとなるが、一方で日本脳炎は、奄美大島で越冬していることが1975年に判ったという2)。
 2.日本脳炎ウイルスの側の変化
 日本脳炎ウイルスも遺伝子型が3型から1型に変化してきている。それは、日本国内での変化か、海外から移入されたものなのか、確定はされていない。しかし、ウイルスが変化するのは時間の問題であり、強毒性のウイルスは宿主と共に死亡し、弱毒のウイルスが生き残っていく。こうしてウイルスの側の変化で、死亡率も、後遺症率も減少していくし、発病率も減少する。もちろん突然変異で強毒化することもある。過去の歴史では麻疹が、30~50年で弱毒、強毒を繰り返したとの報告もある。しかし、舞踏病、ペスト、天然痘、狂犬病、疫痢は過去の病気となり、ポリオ、梅毒、結核、コレラ、発疹チフスも、新たに登場した病原性大腸菌、エイズや狂牛病、SARS、鳥インフルエンザによって無視される程までに減少した。
 3.人間(日本人)の側の変化
 a)日本人の体力の向上
  日本人の栄養状態は向上し、身長も体重も増加し、栄養失調とかビタミン欠乏症などは、特殊の食環境におかれた人だけになった。これは、人間の免疫状態の向上につながる。
 b)日本人の日本脳炎ウイルスへの適応
人間には自然免疫系(先天免疫)と獲得免疫系があり、自然免疫系の細胞免疫で侵入微生物に対応し、処理できれば発病しない。しかし、生ワクチンを接種しても抗体産生されない人が少なからずいるが、(それでポリオだけでなく、麻しん、風しんも2回接種することになった。)その理由が判っていない。侵入門戸の防御機構によって、侵入微生物が感知され、撃退されれば、抗原特異的なリンパ球のクロナールな増殖を必要としない。だから、この段階で処理されれば、防御免疫を生じることはない7)と考える。そうでなければ、抗体陰性でも感染しない理由が説明できない。 
 病原体に感染した時に、感染局所の自然免疫系の細胞免疫が活性化し、それが高まると獲得免疫系が活性化する。細胞免疫を突破して侵入すると、獲得免疫系のヘルパーT細胞やキラーT細胞の誘導や抗体産生が起こり、体内に感染するか、感染しても発病しないか、発病しても軽いか重症化するか、死に至るかが、病原体の強さだけではなく、ヒト(宿主)側の自然免疫系と獲得免疫系の働きによって変わってくる。ヒトは、入ってきた病原体や異物に対して、それに対応する抗体を保有するか産生し、その数は1億種類以上といわれている。
 その仕組みは、利根川博士によって解明された。一つの遺伝子が断片となって存在し、それらを合成して抗体を作る。そして胎児発生の過程で胎児の細胞からリンパ球ができる際に遺伝子の配列に再構成が起こり、抗体遺伝子の構造が変化するという。一度獲得された免疫の記憶は、遺伝子によって一生残る。これが次の世代に受け継がれると筆者は推論する。それ故、世代を経るごとに感染しても発病率や後遺症率、致命率が低くなり、軽症化する。これが筆者のとる病原環境説または適応説である8)。
 病原体に感染して、発病した人も、発病しなかった人も、生き残ったのは細胞免疫の力と、血中抗体を速やかに産生したからであり、その細胞免疫と抗体産生能力は遺伝子によって次世代に遺伝し、次第に細胞免疫と抗体産生能力を持つ人が増え、感染してそのときに中和抗体がなくても、細胞免疫が感染を阻止または遅らせ、潜伏期間中に速やかに抗体を産生するために発病に到らず、もしくは発病しても脳炎症状が出ずに軽快し、日本脳炎発病者が減少したのである。この状態を、日本人と日本脳炎ウイルスとの間に、適応関係が成立したという。そして日本人では、世代の進んだ子どもでの発病は、激減した。海外の流行地での日本人の発病も無いのはこの理由からである。高齢者はそれを受け継いでいないことが多いし、ワクチンも接種していないことが多いから発病しやすいし、高齢化などで免疫力の落ちた人が発病しやすい。
こうして、多くの犠牲の上に、生き延びた人間の子孫は、遺伝子に組み込まれた能力によって、ヒトと日本脳炎ウイルスとの適応関係(社会的、文化的、経済的、環境的、免疫学的)を作り上げたのである。不顕性感染が高いということは、人間の側に免疫能力ができ、それが遺伝されていることを示している。これを人間の環境に対する適応と考える8)。
 4.環境の変化
日本では、1912年の岡山の脳脊髄膜炎の大流行(476人)が日本脳炎のはしりといわれ、1924年の大流行のときに他疾患との鑑別がなされ、B型日本脳炎とされた。その後100年(3~4世代)かかって、ほとんど問題にされない病気となった。(現在ではA型はない。)
結核がヨーロッパからアメリカ大陸に持ちこまれ、アメリカ先住民の間で流行し、始めは粟粒結核で死亡率が高かった時から、世代を経て、主に肺に限局する肺結核となり、死亡率が低くなるまでに、3~4世代かかった8)。
日本脳炎を発病する人が大幅に減少したのは、ワクチンだけによるものではなく、社会的、自然的環境の変化と、日本人自身の体力の向上(免疫力の向上)と、日本人と日本脳炎ウイルスとの適応関係が出来上がり、相当の免疫力の低下した人やまたは免疫学的記憶や抗体産生遺伝子をもたない人だけが発病する病気となった。もはや日本脳炎ワクチンの役割は終焉し、副作用だけがクローズアップされる時代となった。不活化ワクチンは、細胞免疫を高めないし、抗体産生能力を記憶し、遺伝的に継承されるかはわかっていない。
5.免疫抗体系の変化
以上のような状況下において細胞免疫や抗体産生能力、つまり免疫状態が低下すると発病するので、発病する人が老人に集中するようになったのである。また感染する機会も減少している。ウイルスが存在しているのに、発病者がほとんどいなくなったことは、日本人には、ほとんど日本脳炎に対する免疫系が働いて、発病しないことを意味している。一部自然抗体が検出されているが、自然抗体のない人が感染を受けていないことを意味する訳ではない。自然免疫系の細胞免疫段階で侵入を阻止できれば、抗体は産生されない。
6.遺伝子研究の進歩
ヒトのゲノムの研究において、ヒトのゲノムには、過去の疫病の歴史が遺伝子にプログラムされているという。ヒトは1世代で100の変異を蓄積するともいわれている。過去に大流行した病気は、その痕跡を後世のヒトの遺伝子に残した。ペスト、麻疹、天然痘、発疹チフス、腸チフス、梅毒、コレラ、インフルエンザに耐性を獲得してきた。ヒトの内在性レトロウイルスは、ゲノム全体の1.3%あると言う9)10)。
 ヒトと環境(微生物も自然環境に含み、社会環境も)との適応関係ができて病気が変化し、一方でなくなり、その反面環境を変えたために新しい病気が次々と発生してくる。新しい病気の大流行はありえても、昔からある病気の大流行はありえない。
 Ⅳ.日本脳炎不活化ワクチンの有効性が証明されていない
日本における不活化ワクチンの有効性を証明したデータはない。ワクチンの接種による中和抗体の上昇効果については多くの報告があるが、疫学的データはないと考える。
日本でも現在、新ワクチンを開発し、導入を進めている。しかし、その有効性を示す野外実験などの根拠はない。抗体検査だけである。
ウイルスに対しては、細胞免疫が有効で測定する方法は開発されてきたが、まだ一般化されてはいない。自然感染の場合には、中和抗体が出来ていれば細胞免疫もできているとされて、中和抗体の測定で代用されているに過ぎない。過去、日本製ワクチンの台湾での野外実験でも有効性は確認されなかった11)。タイでの野外実験では、やや有効という程度であった12)し、日本人とタイ人では、日本脳炎ウイルスに曝露されている期間が違い、バイアスが多く、日本人にそのままあてはめられない。それは日本人の自然感染しての発病率が5、000人に1人以下(計算不能)であるので、統計上の比較にならないからである。
抗体の持続も1年間中止で16%、2年間中止で22%、3年間中止で26%が陰性になる13)。


 Ⅴ.ワクチンの副作用
表1 1994~2003年度の日本脳炎ワクチン接種後の神経系副反応報告1)
 脳炎・脳症        27  うち 急性散在性脳脊髄炎とその疑い 18
                       その他の脳炎・脳症          9
 けいれん         38
 運動障害         3
 その他の神経障害   20
表2 1994~2003年度の総報告数 
即時全身反応         234
                    神経系(前記)          88
                    局所異常反応(肘をこえるもの) 12
                    39゜C以上の発熱        142
                    その他の異常反応        97
 ワクチンの副作用を表1,2に示す。総報告のうち、死亡は3人、後遺症は14人であった。この間の発病者数は、1994~2000年までで28人、うち小児は15歳1人。死者は1人(87歳)であった。後遺症率15%であった。これでは、日本脳炎にかかる子どもはなく、日本脳炎ワクチンによる副作用と思われる被害者ばかりでているのが現状である。
Ⅵ.病気の予防は何をすべきなのか。
 1.ワクチンは感染症の予防の一つの方法にしかすぎない
 感染症予防対策は、①感染源対策、②感染経路対策、③感受性対策があり、感受性対策には、予防接種とともに、ヒトの身体的、精神的、社会的健康を保つことにある。
 2.ワクチンの見直し
 1970年の種痘禍に続いて、三種混合ワクチンの副作用(脳症など)が多発し、副作用への関心が高まり、1974年三種混合ワクチン接種直後のショックや脳症で死亡する事故が2人あり、1975年三種混合ワクチンが中止された。1970年小児科学会で予防接種委員会を作り、その後パネルディスカッションがもたれた。そのときの報告では、小児科医の全国的規模でのコンセンサスは、有効とされたのはポリオ、麻疹、破傷風であった。そしてそのときの結論として、表3に示すごとくで+と-をあげて評価することであった。 これで評価すれば、日本脳炎ワクチンは、治療法の確立以外は、中止すべきワクチンと評価されると考える。
表3 予防接種の評価基準
        予防の必要性   流行の  治療法の  ワクチンの  ワクチンの
        (病気の恐ろしさ) おそれ   確立     効果     副作用
継続すべきワクチン   +    +      -       +       -
中止すべきワクチン   -    -      +       -       +
おわりに
 日本脳炎ワクチンは、有効性のデータがないのにまかり通っているワクチンである。そして発病者より副作用被害者が上回っている。もうその役割は終わった。
病気の最良の治療法は予防である。予防の第一は、健康を保つことである。健康とは、WHOの定義にあるように「病気でないだけでなく、身体的にも精神的にも、さらに社会的にも調和のとれた完全に良好な状態をいう」。日本で感染症が少なくなったのは、決して予防接種の成果ではなく、戦争をせず、平和に暮らし、軍備費をかけずに経済が発展し、社会経済的に安定したからである。ソ連崩壊後のソ連圏諸国で、結核やジフテリアなどの感染症が激増したり、アフガニスタンの内戦後でも感染症が激増している。世界では、約50カ国が戦争もしくは内戦状態にあり、それらの国にエイズを始めとする麻疹、結核、黄熱、デング熱、マラリアなどの感染症が多い。
  人間は本当に健康であれば、決して病気にならない。悟りをひらいた宗教者たちも病気をしない。こころ穏やかであれば、病気をしないのである。身体とこころの健康を保つことが大切で、それは社会的に形成される。現代では、社会的環境に適応できなくて病気にかかる。だから病気は常に、社会の中の弱者、低所得階層に多くなる。しかし経済的に豊かでも、こころも豊かにならないとまた病気になる。こころ豊かな生活をおくることが病気を防ぎ、予防接種よりも大切なのである。
文 献
1)厚生労働省:日本脳炎に関する専門家ヒアリング会議資料集.2004
2)緒方隆幸ほか:日本脳炎研究の回顧-北岡先生との対談-.臨床とウイルス15:317-326,1987
3)緒方隆幸:日本の日本脳炎の疫学.臨床とウイルス13:150-155,1985
4)厚生省:昭和63年伝染病統計
5)北野忠彦:日本脳炎ワクチンの効果と接種率.小児科診療56:2165-2170,1993
6)水野喬介・園田憲悟:日本脳炎ワクチン.小児科45:883-888,2004
7)笹月健彦(訳):免疫生物学第5版.南江堂:2003
8)ルネ・デュボス:人間と適応.みすず書房:1982
9)マット・リドレー:ゲノムが語る23の物語.紀伊國屋書店:2000
10)マット・リドレー:やわらかな遺伝子.紀伊國屋書店:2004
11)三浦悌二:日本脳炎・現状の理解と将来への展望.Medical Tribune 1980年5月8日号:26~27,1980
12)木村三生夫・平山宗弘(編著):予防接種の手引第四版.近代出版,pp1-9,1983
13)辻 芳郎:日本脳炎ワクチン.小児科37:1149-1155,1996



日本脳炎ワクチンの廃止を訴える(1990年)

2017-03-30 10:16:27 | 予防接種
 みなさま、BCGに続き、1990年に大阪で出した論文です。BCGと共にどこに出しても、医師が反論できないものをと書きました。ただ、当時は表をパソコンに載せられなかったので、コピーして貼り付けました。そこの部分が抜けています。その内に載せますが、取り敢えず論文の部分だけ載せます。

 この論文のあと、誰も反論しないまま、学会も厚生省からも無視されていましたが、元感染症情報センター長の岡部信彦さんが彼の編集する特集号に載せてくれた初めて医学雑誌に載せてもらった論文も、追加して載せます。岡部信彦さんは、もう定年なので今の研究所をやめると思いますので、ここに明らかにしますが、私のはとこで、若い時は私の意見に賛同してくれたのですが、その後変わってしまいました。
 体制にとりこまれてしまったのだと思います。彼の唯一の好意で載せてくれたのです。


      日 本 脳 炎 ワ ク チ ン の            1990.9.
          強 制 接 種 を 廃 止 さ せ よ う 
§1.日本脳炎とは
  日本脳炎は、日本人によって日本で確認されたウィルスによる病気なので、日本脳炎と命名されました。この脳と脊髄に炎症が起きる疾病は、実際は、極東全域に見られる病気で、バイカル湖の東部あたりから、朝鮮、中国本土、台湾、グァム島に至る太平洋の島々、東南アジア、インドネシア、タイ、ミャンマー、インド、ネパールにおよび、いまだに一部の国で流行している病気なのです。
§2.どんな病気か
 (1)日本脳炎はコガタアカイエカ(家蚊)が主に媒介します。また鳥、馬や豚など温血動物なら皆媒介すると言われます。ヒトと馬に脳炎を起こしますが、鳥や豚には病気を起こさないようですが、種豚の妊娠中にかかりますと子豚が死産します。
◇ 毎年横浜で蚊を採集しての調査では、日本脳炎ウィルスが現在まで続いて見つかっているといいます。
◇ 日本脳炎ウィルスは、脳や神経系で増殖するウィルスで、現在は特効薬はなく、死亡率が18%と高く、なおっても後遺症が30%と、残り易いことです。尚脳炎症状のほかに、胃腸の出血や穿孔もあります。潜伏期間は 7~20日。
◇ 死亡率は1934年までは60~70%前後で、1935~1939年は50%、戦後は1947、1949年は90%前後でしたが、それ以外は大体40%前後で、1955年以降は30%前後、1965年には26%で、以後低下し20~30%、1982年は19%、1984~1987年合計では18%に減少
しています。後遺症は1984~1987年合計では45%でした。
 この傾向はどこの国でも同じで、流行の始めは死亡率が高く、しだいに減少し、流行がおさまる頃には大幅に低下しています。これはウィルスと人間との適応関係で、共存の道をたどっているのです。
◇ 日本国内での発生は、ほとんど関西以西の西日本で特に九州、近畿地方に多く、1970年以降は関東甲信越以北は5~7%(年平均1.5~2.2人)です。
 しかも熊本、福岡、長崎、佐賀、愛媛、山口、和歌山に患者発生が集中し、この7県で70%を占めています。また広島、高知、兵庫、大阪に隔年程度に発生し、他は散発的です。 
表1  日本脳炎患者発生地域(1980~1988年合計)総数 272名
         九州   中国  四国   近畿 東海北陸 関東甲信越以北
 地区別患者数   137    24   24    59     8     20
   うち訳は 熊本71  山口12 愛媛14 和歌山31  愛知 3   東京 7
        福岡31  広島 9 高知 6  兵庫 9  石川 3   栃木 5
        長崎21           大阪 8        千葉 4
        佐賀10                (厚生の指標より作製)
◇60才以上の高齢者が多いのが特徴です。
  流行時は小児(4~9才)が多かったのですが、今は発病するのは老人に多く、死亡するのも殆どが老人です。1984~1987年合計では40才以上では75%、60才以上で45%でした。 5才以下16人で12%、 6~19才は1名でした。特に死亡者のうち60才以
上が78%で、50才台を含めると87%でした。
   表2(今川より)
    (ここに表が入ります。)

◇ 発生時期は6月から9月までの夏場だけです。また臨床的に日本脳炎と診断された人のうち真性(抗体陽性)になるのは流行期以外は通常30%にすぎないといいます。
  尚日本脳炎は北海道には存在しません。
 (2) 不顕性感染-かかっても発病しないこと
  厚生省は流行予測事業の一環として血清の中和抗体を測っていました。その結果を見ると、1966年から1980年までの間で、年齢が高くなるに連れて陽性率は50~90%としだいに上昇し、各年齢毎の率は15年間の間にほとんど変化していません。
  高齢者で抗体が90%前後あることは、多くの人は知らない間にかかっていて発病していないことを示しているのです。特に後年はワクチン未接種者を対象にしていますのでその信頼性はあると思います。
  図1  中和抗体保有率
      1966~1980年
       (緒方より)

 (ここに表が入ります)


 このことから一般には、かかっても大多数の人は発病せずに免疫ができ、発病率は現在の日本では0.05%(2000人に1人)以下と言われています。
 更に1981年の厚生省の感受性調査の成績では、ワクチン接種対象の年令層である0~9才では、ワクチン歴の無いものでも抗体陽性率が40%以上あり、15才以上はワクチン歴の無いものでも抗体陽性率が60%以上になっています。

 ワクチン歴の有る無しを問わず                  図2 (吉岡より)
60才以上では80~90%の人が抗体を保有しており、ほとんどの人は
一生の間のどこかで、か自然に感染し、発病せずに終わり(不顕性感染)、抗体をもつようになっているのです。
 日本脳炎ウィルス保有蚊に刺されることによって感染が成立し、これが感染率で、さらに感染した人が発病する発病率は、その時代と地域で異なるようで、流行時には高く流行がおさまると低くなるようです。ですから0.2~0.3%ととか、 0.1~4%とか、いろいろな数字がでますが、今流行しているインドの低所得階層では20~30人に1人が発病し、現在の日本では2000人に1人が発病すると云われています。
 このことは、日本人の栄養状態や体力が向上したことと、長年日本脳炎ウィルスにさらされてきたことにより日本脳炎ウィルスと適応してきたことが、理由として考えられます。緒方氏によれば、①豚が人間の密集地から離れた場所で飼育され、人間が有毒蚊に刺される機会が減少した、②家庭に網戸が普及した影響、③蚊の多発時期に、水田に殺虫剤の使用や水を入れ替える中干しが行われるようになり、蚊の発生が抑られた、といいます。それに湿地や沼地が減少したともいいます。しかしこれらの環境の変化はあくまで副次的なもので、主になるのは人間と日本脳炎ウィルスとの適応が進んだ為ではないでしょうか。
  (3)日本以外の国での発生状況は、
 中国では1957年から1971年まで大流行があり、1966年から全土で独自の不活化ワクチンを接種していましたが、1978年には患者18,082名(死者2,578名)の大流行があり、以後しだいに発生率は1/4 から1/20に減少し、、罹患率が人口10万人当たり20から、2に低下したと云います。韓国では、1955~1968年の大流行のおさまった1971年から日本と同じ不活化ワクチンを小児に接種していますが、なぜか1982年に大流行がありました。台湾では1960年代に多く、その後はしだいに減少しています。1965年から日本製ワクチンの野外実験をした後、1970年頃から接種開始しましたが、一時有効性が問題になり、中止したとの情報もありましたが、現在は不活化ワクチンを定期接種しているようです。
 ベトナムでは1970年代に発生し、1980年代に流行が始まっています。タイでは1969年の流行以後流行し、毎年1000名規模の患者が出ていて、1980年代にはさらに大きな流行を繰り返しています。インドでは、それまでは南部で12月から3月に年20名前後だったのが、1973年から流行が始まり北部で5月から10月に爆発的に流行し、1980年代にも大流行が続いています。しかも低所得階層の発病率が20~30人に1人と高率なのです。ネパールでは、1978年以来流行し、1982年に大流行があったようです。ミャンマーでは、1974年から少しづつ散発的に発生し、まだ流行はないようです。インドネシア、マレーシアでは年間を通じて小規模に散発しているといいます。
  (4)日本での発生状況
 日本では1923年の大流行以来発生が続き、戦後も大流行し、1967年頃から急激に減少し、1972年以後は二桁以下の発生になっています。
  日本脳炎の患者数、罹患率、死亡率  (「日本の日本脳炎の疫学」緒方より)
        (今川によると1946年指定伝染病、1954年法定伝染病になる。)

 (ここに表が入ります)

$3.日本脳炎ワクチン
 (1)どんなワクチンか?
◇ 日本脳炎ワクチンは、不活化ワクチンと言って日本脳炎ウィルスを殺して作ったものなので、確実に発病を抑える効果は少なく、効果があるとしても発病する率が 1/4程度に減るだけです。ですから生ワクチンに比べて有効性に問題があり、予防注射をしてもかかることがあるのです。また初めて注射した後、効果を期待できるのは1~2週間隔で2回接種した人だけ(1回だけの人は無効)で、時期は第1回接種後
の1ヵ月後からです。免疫の持続については、臨床的には確かめられておらず、1コース(初年度2回、翌年1回追加)の予防接種により過半数の人には少なくとも3~4年後にも中和抗体が証明されるので、その間免疫が残っていると考えられています。
 でも免疫の主役はあくまで細胞免疫であり、抗体(液性免疫)ではなく、抗体があるからといっても細胞免疫があるかどうかは分からないので、中和抗体があるから発病を予防できるかどうかについては推論に過ぎません。もちろん自然感染の場合は、抗体があれば細胞免疫もあることが確実ですから、二度とかからないのです。
◇ 現在種豚には日本脳炎生ワクチンを接種していますが、豚には、不活化ワクチンより生ワクチンの方が効果が良いので、生ワクチンを用いているのです。人間には生ワクチンは副作用が怖いので用いられていません。
 (2)日本脳炎ワクチンの有効性が証明されていません。
◇ 不思議なことに日本におけるきちんとしたデータはないのです。ワクチンの接種による中和抗体の上昇効果については多くの報告がありますが、予防効果についてはデータがありません。
◇ 更に前記の1981年の厚生省の感受性調査の成績では、ワクチン歴の無いもので、ワクチン接種対象の年令層である0~9才で抗体陽性率が40%以上あり、15才以上は60%以上になっています。またワクチン歴の有る無しを問わず60才以上では80~90%の人が抗体を保有しており、その半面ワクチン接種歴のある人でも、いずれの年令層でも抗体保有者は 100%にはならないのです。即ち実際に使用されていたワクチンは、中和抗体で見ても効果が確認されなかったのです。
◇ ほとんどの人は成長する間に、いつのまにか自然に感染し、そのまま発病せずに終わり、抗体を保有しているのです。だから、ワクチン接種の効果判定がなおさら難しいわけで、日本脳炎患者が減ったのはワクチン接種の効果とは言えないのです。
◇ 日本脳炎ワクチンの唯一の有効例として報告されているのが、1965年の台湾での日本が寄贈したワクチンによる野外実験です。
            日本脳炎ワクチン接種群 の発病率  6人/13万 4千人
            対照群(破傷風ワクチン接種)の発病率 24人/13万 2千人
            対照群(未接種)    の発病率 35人/14万 1千人
                       これを根拠にしているのです。
 ところがこれに基ずいて台湾政府が1966年から2才児を対象にワクチンの接種を行っていますが、その効果が期待される2才児の患者数が全く減少の気配がなかったのです。
   (三浦より)   1961~65年(ワクチン前)    8.1% (218/2695)
            1966~70年(ワクチン後)   10.8% (363/3355)
            1971~75年(ワクチン後)    8.5% ( 92/1078)
 こうして有効性が否定されてしまいましたが、その後は患者数が減少したようです。最近の情報では、台湾では現在、定期接種をしているといいます。
 (3)臨時接種という名で半強制
  臨時接種という名目で強制接種になっていますが、実施については都道府県に任されている為、都道府県の対応もバラバラでこれ程各地で違うやり方をしている予防接種はないと云われる位です。、もちろん北海道は実施していませんし、東日本は基礎免疫の1ヵ月おいての2回と1年後の追加をしてその後はしない所が多く、熊本のようにその後も隔年に追加している所もあります。日本全体の接種率は30%前後に落ちているようです。
  またインフルエンザ・ワクチンと同じように、もっとも発病率や死亡率の低い幼稚園児や学童を接種対象としているのです。(予防接種の初めの頃は老人や、慢性疾患のある人を対象にしていたのですが。)
 (4)ワクチンの副作用
  神経親和性のウィルスの為 、発熱、接種後脳炎、脳症、急死、てんかんなどの神経障害があります。
§4.病気の予防は何をすべきなのか。
 (1)ワクチンは病気の予防の一つの方法にしかすぎません。
◇ 日本脳炎の予防は、人間を防波堤として予防接種で防ぐよりも、蚊の防除をすることが第一で、その為には湿地帯や家の周辺の水たまり、特に小さい水たまり、空き缶や水のたまった容器、屋根のといなどで繁殖しますので、それらをなくすことが第一なのです。過去にヨーロッパでも湿地帯をなくすことによってマラリヤを消滅させています。
◇ 石垣島はかってマラリアの濃厚汚染地域でしたが、マラリアを媒介する蚊の撲滅に全島民が努力した結果、マラリアの撲滅を達成した歴史があり、それとともに日本脳炎の流行も終息したとみられています。実際に、マラリアの撲滅以後に生れた小児の日本脳炎に対する抗体が、ほとんどないのです。
  (2)日本脳炎ウィルス流行予測は、豚の血清を調べれば分ります。屠場豚は一夏しか越えない豚なので流行予測に使われます。屠場豚の血清の中和抗体試験では、1989年には、北は秋田県、新潟県、栃木県、茨城県辺りまで、豚の50%以上が9月までに日本脳炎ウィルスの感染を受けていました。緒方によると、豚の抗体保有率が7月中に50%をこえると、人間の日本脳炎が流行するおそれがあります。この様に流行予測は豚の血清調査でできるのです。ここ数年は、抗体保有豚が半数をこえる月が西日本で8月で、東日本では9月かまたは半数に達せずに終わります。また7月に抗体保有豚が半数をこえるのが西日本で10年に3~4回あります。現在は夏になると九州から始り次第に北上し、福島を越える辺りで秋になり、北海道には届かずに終ります。
§5.最後に
◇ 日本脳炎ワクチンはインフルエンザ・ワクチンよりも、もっとデータが少ないのにまかり通っているワクチンです。BCGと共に強制接種を廃止させるべきでしょう。◇東南アジアでの日本脳炎の流行は、日本→韓国、台湾、中国→タイ、インド、ミャンマー→ベトナム、ネパールとうつってきています。これを見るとその国の社会経済の一定の発展段階で大流行を起こし、その後社会経済の発展と共に人間とウィルスと
の適応ができて、しだいに流行が衰えているのです。
 結核と同じように、その社会と日本脳炎ウィルスとの適応が出来上がっていくと、発病率も、死亡率も低くなり、ウィルスと人間の共存が成立し、まれにしか発病しない病気になっていくのです。
 なぜ社会のある発展段階で、大流行するかというと、まだ日本脳炎ではわかっていませんが、なんらかの自然の生態系が変化して、蚊などの媒介生物の繁殖に変化があったと考えられます。例えば、アフリカでは森林には猿につく蚊がすんでいますが、焼畑農業のために森を焼き払うと、草原になり、ヒトにつく蚊が増え、マラリアが広がります。ツエツエ蠅も草原に住み、森を焼き払うと増えます。日本脳炎でもなんらかの生態系の変化で大流行し、人間との適応関係を作って流行が終わるのです。
◇ 病気の最良の治療法は予防です。
  予防の第一は、健康を保つことです。健康とは、WHOの定義にあるように「病気でないだけでなく、身体的にも精神的にも、さらに社会的にも調和のとれて完全に良好な状態をいう」のです。
  人間は本当に健康であれば、決して病気になりません。沖縄の百歳の長寿の人を調査した報告では、ほとんどの人が医者にかかるような病気をめったにせず、病気をしないから長寿なのです。悟りをひらいた宗教者たちも病気をしません。こころおだやかであれば、病気をしないのです。身体とこころの健康を保つことが大切でそれは、社会的に形成されるのです。
  病気は人間が環境に適応できない時になるのです。現代では、多くは社会的環境に適応できなくて病気にかかるのです。ですから病気は常に、社会の中の弱者に多く現われます。だから低所得階層に病気が多くなるのです。でも経済的に豊かになっても、こころ豊かにならないとまた病気になります。ストレスが病気を招きます。こころ豊かな生活をおくることが病気を防ぎ、予防接種よりも大切なのです。
  そしてそれは社会によって左右されますから、こころ豊かな生活のおくれる社会を作ることが最大の病気の予防なのです。(私の疾病論についての詳細は略します。)
◇ 第二は蚊の住みにくい環境にすることです。しかし自然の生態系を乱すと、違う生物やウィルスが繁殖したりしますので、注意が必要です。現代では余り環境を変え ない方が日本人にとっては都合がよいのではないでしょうか。
文献
1.三浦悌二(帝京大衛生学教授)「日本脳炎-現状の理解と将来への展望-」
 Medical Tribune,1980.5.8.
 ☆ワクチンの効果
  1948に6万2千頭のウマに接種したら、20万頭の非接種対照群に比べ発病を3分 の1以下に減らしたと言う。
  ヒトでは1954年から実施されている。しかし1965年の台湾での野外試験が唯一の 有効例として報告されているほかには、ヒトで有効と判定された野外試験の成績が ない。
  台湾ではその結果にもとづいて1966年から2歳児にワクチンの接種を行なっている。(しかしその後の10年の間に全日本脳炎患者のうちの2歳児の占める割合に変化がなかった。)
  厚生省の感受性調査の成績では、ワクチンを最も頻回に接種されていた0~9歳の年齢層では、ワクチン歴のある者の方が、ない者よりも中和抗体陽性率が低かったと発表されている。これによれば、実際に使用していたワクチンでは、中和抗体でみても効果が確認されなかったことになる。
  診断基準--最近は患者のHI抗体によって確認される患者が30%をこえることは少ない。
2. 桑島謙夫「ワクチンとは-理論と実際-」医歯薬出版1975
3.木村三生夫、平山宗宏編著「予防接種の手びき」近代出版、第四版1983
4.厚生統計協会「厚生の指標」臨時増刊「国民衛生の動向」1980~1990
5.C.F.サムス「DDT革命」(1962)岩波書店1986
6.緒方隆幸(元国立予防衛生研究所)「日本脳炎の脅威はまだ消えていない」科学朝
 日、July 1990
7.顧 佩韋(中国国立ワクチン・血清研究所副所長)「中国におけるウイルスワクチ
 ンの現状」臨床とウイルス Vol.11,No.4,1983.12
8.対談「日本脳炎研究の回顧-北岡先生との対談-」北岡正見(故・元国立予研副所
 長)緒方隆幸(帝京大衛生)、徐 慶一郎、吉岡勇雄ほか
9. 北岡正見「日本脳炎ワクチンについて」日本公衆衛生雑誌4(7):335-340,1952
10. 五十嵐 章(長崎大学熱帯医学研究所ウイルス学部門教授)「日本脳炎ワクチン」
 最新医学Vol.43,No.3:508-513,1988
11. 吉岡勇雄(北里研)「日本脳炎」免疫と疾患Vol.8,No.2:267-271,1984
12. 大谷 明(国立予研部長)「日本脳炎ウイルス」からだの科学増刊19:171-174,
 1987
13. 大谷 明(国立予研部長)「日本脳炎ワクチンの効果と反省」臨床とウイルス
 Vol.10,No.1:14-16,1982
14. 小林 譲(愛媛大学第一内科)「日本脳炎」臨床とウイルス Vol.10,No.1:
 14-22,1982
15. 吉岡勇雄(北里研)「日本脳炎ワクチン」総合臨床Vol.33,No.11:2501-2505,
 1984
16. 今川八束(都立荏原病院副院長)「日本脳炎」総合臨床Vol.38,No.2:277-281,
 1989,
17. 中山哲夫(済生会中央病院小児科)「東京都心部住民における日本脳炎ウイルス
 中和抗体保有状況」感染症学雑誌Vol.61,No.7:802-809,1987
18. 福永利彦(琉球大学医学部ウイルス学)「東南アジアにおける日本脳炎の疫学」
 臨床とウイルスVol.13,No.2:135-143,1985
19. 石井慶蔵(国立予研)「東南アジアにおける日本脳炎」臨床とウイルスVol.13,
 No.2:144-149,1985
20. 緒方隆幸(帝京大学衛生学)「日本の日本脳炎の疫学」臨床とウイルスVol.13,
 No.2 :150-155,1985
21. 林 薫 (長崎大学名誉教授)「日本脳炎ウイルスの抗原構造」臨床とウイルス
 Vol.13,No.2:156-161,1985
22. 五十嵐 章(長崎大学熱帯医学研究所ウイルス学部門教授)「新しい日本脳炎ワ
 クチン」臨床とウイルスVol.13,No.2:162-165,1985
23. 小林 譲(愛媛大学第一内科)「日本脳炎の臨床」臨床とウイルスVol.13,No.
 2:166-172,1985
24. 臨床とウイルスVol.13,No.2:177-184,1985


BCGの廃止に向けて(1990年)

2017-03-28 20:35:23 | 予防接種
 古い論文ですが、歴史を書いています。まず、私が大阪のワクチントークの大会で、インフルエンザワクチンの廃止についで何を取り上げるかと言うことで、提案した二つの論文の一つです。
 これが初めて日本でBCG廃止を提案した論文です。

 BCGの歴史と、日本での採用の経緯を書きました。私の尊敬する小児結核の専門家の上島三郎先生(元都立の小児結核療養所長で、元国立神奈川療養所長)からの聞き書きも含めて書いています。古いので書き直したいのですが、そのまま載せます。

 日本のBCG廃止論のはじまりと思って下さい。

  B C G の 強 制 接 種 廃 止 に 向 け て 
                                  1990.8.
§1.BCGの歴史
  BCGは1921年パスツール研究所(仏)のカルメットとゲランが、結核菌を継代培養したものが弱毒で免疫力があることを発見し、ワクチンにしたものです。
  日本では1938年(昭和13年)日本学術振興会第八小委員会による協同研究で有効との結論を出したのです。(日本学術振興会第八小委員会報告、昭18)「大体6万人位を研究対象とし、その中でBCGを打ったのが4万人位で、1~5年位観察して発病を1/2、死亡を1/8 に減らしたと結論しました。この数字が長い間わが国ではBCGの効果として通用していました。」(砂原茂一「ある病気の運命」より)。その後これに代るBCGの有効性に関するデータは日本ではありませんが、対照群をとってランダムに分けてやっていなかったので世界的には通用しません。当時は富国強兵政策の為、このデータをもとに、1942年に国民学校の新卒業生全員と工員と結核患者の家族にBCGの接種が行なわれたのです。
  敗戦後、アメリカでは少数派であったBCG論者のサムス准将がGHQの公衆衛生局長として来日し、BCG論者と結んで1949年にBCG接種を再開しました。
  1951年には日本学術会議第七部会(医学)が慎重論を唱え、厚生大臣も見直しを国会で約束したにも拘らず、日本のBCG論者をバックにGHQが厚生省を押切って新結核予防法を成立させたのです。反対論は武見太郎、田宮猛雄、内村祐之らの東大内科中心で、その根拠はアメリカのアーサー・マイヤーという結核のオーソリティの論文であったといいます。(BCG論争)
  アメリカでは一度もBCGは公的には採用されず、その結果アメリカの直接の占領下の沖縄では、返還されるまでの27年間BCGが行なわれなかったのです。
  その後1974年結核予防法が改正され、現在の方法になりました。
§2.BCGの効果
  1952年イギリスの5万人の都市中学生を対象にした研究調査で、79%の防御効果があるとの結論が出たのが、BCGの効果があることを示した有名なデータですが、この他にはこれだけのデータはありません。
  有効性のデータは北米インディアン1938年、シカゴ小児1948年があり、無効のデータはジョージア1947年、ジョージア、アラバマ1950年、プエルト・リコ1951年とありました。
  ところが1968年~1975年に南インドのマドラスでランダムに36万人にやった結果では、全然効かないという結果が出たのです。これはプロスペクティブ・スタディとして大規模に計画された研究で、議論の余地のないものですが、1975年に無効と結論の出た為に、その後の影響は大きく、世界の大勢はBCGの有効性を疑問視する様になりました。日本のBCG論者(結核の研究者の殆ど-小児結核の研究者も含め)は、これをいろいろな理由をつけて認めていません。でもそれに代るデータは出ていません。
  発展途上国は、ツベルクリン反応をしても4割が判定に来ず、予防内服は資金的にも人的にも不可能で、しかも結核が蔓延している為、「発展途上国ではBCGは必要」とのWHOの見解が出され、例外的な事情からBCGが続けられているのです。(別資料-泉 孝英「結核」より)
  BCGを公的には採用しなかったアメリカは、日本よりはるかに結核の少ない国になり、アメリカの結核患者は、現在年間 2.5万人位で、人口10万人対で10位で、日本の46.2の 1/4以下。死亡率は1984年人口10万対で男0.8女0.3で、日本は1986年男5.1女1.6で、これも日本が5倍以上です。アメリカの結核は移住民と低所得階級に集中し、中産階層以上の成人のツベルクリン反応陽転率は5%前後と極めて低いのです。
  本土復帰まで27年間BCGをしていなかった沖縄県が、1986年の統計で死亡率は全国の都道府県の中で低い方から3位に、有病率は低い方から4位と低く、罹患率は26位でほぼ全国平均ですから、九州地区は結核が多いのに沖縄だけ低いことも考え合わせると、沖縄のやり方の方が本土より勝ると考えられます。どう見てもBCGの効果はありません。(本土復帰は1972.5)

  元ロックフェラー研究所長故ルネ・デュボスは、「一般の人びとにとって、予防接種を評価する手っとりばやい方法は、それが広く実施されている地域における効果を観察することであろう。ところが実は、これは不可能ではないにしても極めて厄介な仕事なのである。」、「BCGの科学的な研究と実施が非常に活発に行われたデンマーク、ノルウェー、スウェーデンなどの国ぐにでは、結核死亡率はすばらしく低下した。しかし、アイスランドほど死亡率が目覚しく減少したところはなかった。アイスランドの死亡率は、1929年には人口10万人につき 203であったのが、
1949年には26に低下したが、BCGもその他のワクチンも用いられたことはなかったのである。スカンジナビア出身者が多数を占めているミネソタ州では、結核死亡率は、1916年には人口10万人につき 107であったが、1949年には13.6になった。それはデンマークの同じ年の死亡率19より低く、世界最低の一つに数えられる。ミネソタ州では予防接種の力を借りずに結核を征服しつつあるのである。」・・・ 
  「日本の当局は、戦争終結の直後BCG接種の大計画を立てた。日本の結核死亡率は、1945年の人口10万人につき 280から、1948年には、 181に低下した。しかし、このことはBCGが結核の抑制に何らかの有意義な役割を果したという証明にはならない。というのは、結核は戦争や革命の際に増加し、正常な社会状態に戻ると急速に減少するということを、繰り返し経験が教えているからである。」
  「それにもかかわらずBCGの予防効果は、いくつかの小規模なよく管理された実験で確証されているように思われる。」(粟粒結核と結核性髄膜炎でそう見える。しかしまたそれらの病気はニューヨークやフィラデルフィアのようなBCG接種が行われなかった大都市の白人のあいだにも見られないのである。-原著者注)
  「しかし、たとえ理想的な条件のもとで予防接種が行われたとしても、被接種群から結核を完全に締め出すことはできない。そればかりでなく、接種による免疫の持続期間もまだはっきりしていない。」、「弱毒菌による予防接種は、結核感染に対する抵抗性を増すことができるが、その防御力は低いというのが一般の見解である。」、「結核対策に対する細菌学の最も重要な貢献は、結核菌の伝播を防ぐ為の指導であると言ってよいだろう。以下略」(以上ルネ・デュボス「白い疫病」1952年より-1982年北 錬平訳結核予防会発行-)
  1949年American Trudean Societyの見解は「①BCGによる防御力は完全なものではない。また永久に続くものでもない。②BCGは・・・多くの結核対策中の一方法と見なすべきである。③文献によれば、・・・(ハイリスク・グループ)に接種すると結核患者を減少させることができる。他略」というものでした。
§3.結核は社会的な病気である
  結核は石原修の「結核と女工」で知られた様に典型的な社会的病気ですが、残念ながら社会問題化しても社会的な取組みがなされず、専ら医者任せにされ、その結果改善が進まなかったのです。
  欧米諸国では産業革命の時に結核が猛威をふるいましたが、手術療法や抗結核剤の登場を待たずに結核死亡率の減少に成功し、第二次世界大戦の時は一時的に増えたもののその後再び目覚しく減少してきました。
  結核政策での日本と欧米諸国の違いは、社会的な対策をしてきたかどうかにあります。戦後すぐ、統一戦線内閣や社民党政権が相次ぎ、個人の住宅を優先して作ったり、労働時間の削減や給与などの面で大きく進んでいった西欧諸国と、工場や炭坑など企業を優先し、貧弱な住宅に住まわせ、経済大国になった今も、残業に追われ、有給休暇も消化できない日本との差、咳や熱が続いてもなかなか休めず、医師を受診しにくい職場が数多くあり、それが未感染の小児や若者への集団感染事件を起こしている日本、まさに社会における人間への価値観が結核という病気の消長に表われているのです。
  昔、ホフバウア・フラツエクという人が「結核の転換点」ということを言い、結核の死亡率が人口10万人について8人がその転換点で、そこ迄は生活条件、一般衛生状態、社会的環境などの二次的要因(医学外の努力)で下げられるといったのです。ドイツはそこを1925年には突破しているし、他の多くのヨーロッパ諸国も1930年代にはそこまで減っています。ところが日本は1951年にやっとそこに辿りついた。ということは、ストレプトマイシンの出来た7年後だったのです。(砂原茂一氏の話ですが、数字があいません。一桁違いの人口10万人に80ではないかと思います。でも日本の結核死亡率は人口10万人対で1951年110、1952年82、1953年 66ですから、まだ一年違います。)
  ところが江戸時代の1831年から10年間の飛騨の山村では、結核の死亡率が人口10万人に62.7だったのです。(「飛騨O寺院過去帳の研究」須田圭三)江戸時代の方が結核は少なかったのです。明治、大正、昭和と江戸時代以上に苛酷な労働を強いられ、女工と小作農民と兵隊(農民)が結核にかかっていったのです。
  戦後の農地解放後、結核は労働者中心になっていきます。日本の政府は、労働者の為の広い住宅の建設、賃金や労働条件の向上などに力を入れる代りに、企業、学校、国、自治体から結核患者をしめだす為に、毎年の結核検診(胸部レントゲン撮影)を行なう様になったのです。
  日本では1942年以来、今までに1億8千万人にBCGを接種しているのに、死亡率は減りましたが、未だに結核発病率は戦後最高の時(1951年)の1/10にしか減っていないし、減り方もここ数年停滞しています。ポリオは生ワクチンの普及によって年間5000人から、年間0~8人に減少しています。結核は社会的な病気という点について説明が不足していますが、時間がないので別の機会にさせて頂きます。
§4.現在世界では
  1987年現在、ヨーロッパでBCGの接種率は65%です。どの国が廃止したかはつかんでいません。1989年現在BCGの強制接種をしているのは世界で64ヵ国です。
  WHOでは結核発病率が0.01%以下ならBCGをすることに疑問があるといっていますし、西ドイツでは0.04%、イギリスでは0.02%以下では集団検診を廃止すべきだといっています。 (日本は0.0466%、ただし小中学生では年間0.004%未満、高校生で0.011%、20~30代では0.03%未満、40才代では0.040%)
  日本ではWHOの基準で、小中学生のBCGと高校生以下の集団検診は廃止すべきだし、西ドイツの基準では40代以下の集団検診は廃止すべきなのです。
  発展途上国では予算も少なく、感染症で死ぬこどもも多く、BCGを含めて6種のワクチンをする運動をWHOが推進していますが、他の5種(DPT,麻疹、ポリオ)ではきちんとした効果が確認され、発表されているのに、結核だけは発表されていません。(World Health Statistics Annual 1984,1986,1988)
 現在45ヵ国前後が戦争または内戦状態にあり、生れたこどもの5才までの死亡率が10ヵ国で25%、16ヵ国が20~25%、そして残りのアジア、アフリカ、中東の大半の国ぐにが10~20%にあり、日本は0.8%と極めて低率です。にもかかわらず、結核の罹患率、死亡率は中進国となっているのは結核対策に問題があるからです。
§5.なぜBCGを取上げたか?--現在の日本の結核対策の問題点--
(1)予防不在、早期発見不在の結核予防政策
  日本では結核専門家や厚生省は、結核対策として「予防、早期発見、早期治療」を掲げています。ところが予防はBCGだけですし、早期発見の中心になるべきツベルクリン反応はBCGの時の3回だけで、あとは専ら集団胸部レントゲン間接撮影になっています。早期治療は見つけた患者の治療。これでは、予防も早期発見も、中途半端でその効果を発揮していません。その為結核患者が跡を絶たず、毎年5万2千人の活動性肺結核患者(うち排菌者2万7千人)が出ています。しかもその9割は症状が出て受診し見つかっているのです。
  排菌者が次々と出てくる為、こどもたちを主とするツベルクリン陰性者が結核感染の危険にさらされているのです。一人の大人の排菌者が周囲のこどもたちに感染させる集団発生事件が相次ぎ、しかも大部分は隠されて報道されていません。(わが国の結核集団感染事件--「結核の感染」青木正和結研副所長)
  小児科医会の報告でも結核集団感染事件がほとんどです。中学教師、塾教師、保母、ステロイド治療中の中学生3人、同じ保育所の保母2人、精神薄弱児施設の父兄。千葉では報告者が個人的に相談を受けたのが小学校2、中学校2、高校7、事業所3、その他1という。あとは家族内感染です。問題になるのが、多数のこどもや若者と接触する職業の成人ですが、残念ながら、医療機関を始め、保育所、幼稚園、小中学校、高校、学習塾、養護施設などの労働者の労働条件は劣悪で、結核発生の温床になっているのです。いつでも休めることが必要なのです。
  集団間接胸部レントゲン撮影は、1988年には2476万人に施行され、発見患者数 5372人で発見率は0.022%でした。1987年の新登録患者数は56,496人で、90%以上の結核患者は、症状があって医療機関を受診し見つかっているのです。検診が結核患者の早期発見に1割しか寄与していないのです。確かに治療面では大きく進歩し、治療開始後2週間で排菌しなくなるので、長期入院の必要はなくなり、9ヵ月の通院治療が可能になったのです。だから、結核の専門医たちは「予防も治療も期間は同じだから見つけて治せばよい。」と発病の予防を考えていないのです。
(2) BCGのマイナス面も大きい。
  有効性の明らかでないBCGをすることで「予防注射をしているから安心」と言う意識を医者や国民に植え付け、結核を「もう克服され、殆ど見られなくなった病気」という錯覚をもたらしています。
  1974年BCGを3回に減らした結果、ツベルクリン反応も3回になり、自然陽転の早期発見が遅れ、小学校入学前、小学5~6年生、高校生以上とに発病が集中する傾向があると指摘する小児科医もいます。
  またBCGをすると、自然陽転の判定を難しくします。その為予防内服の開始を遅らせる結果を生じます。
  高橋晄正氏の「薬のひろば」通信No.2によれば、アメリカ・能書集「PDR.1989」には、BCGの害作用として「1)ときに局所リンパ腺炎、大部分は自然治癒、まれにリンパ瘻をつくる。2)まれに骨髄炎(1/100万)、狼瘡様反応(膠原病)がある。
3)免疫不全の人では全身BCG感染と死(1/1000万)がありうる。」と記載されている。
  そして最大の害は、BCGの効果を「信じる」ことによって生じる、予防、早期発見、早期治療の遅れであり、本来は社会的条件を整えることで克服できるのに、経営面から、労使対策から、苛酷な労働条件が押し付けられ、結核が発病していくのです。
(3) BCGをしない時、結核の予防対策はどうなるのでしょうか。
  日本とアメリカとの違いはどこにあるのかと考えて、アメリカの結核対策を学んだら、日本と違うことが判ったのです。主として1950年代に行われた研究を基に30年以上の経過観察をしてきた結果が出ていて、結核死亡率でも、結核罹患率でも、アメリカの方法が勝ると出たのです。
  その方法は、ツベルクリン反応が硬結で10㎜×10㎜以上の自然陽転者に抗結核剤(INH=アイナーまたはヒドラ)を内服させるのです。更に成人で、胸部レントゲン写真で石灰化などの古い結核の病巣があって、今まで一度も抗結核剤を飲んでいなければやはり、抗結核剤を内服させます。
  症状がない限り、結核検診の為の胸部レントゲン撮影をしません。するのはツベルクリン反応です。もちろん陰性であれば問題ありません。ツベルクリン反応による検診も現在は結核対策中進国ですから1~2年に1回ですが、ロー・リスク・グループに入れば数年に1回です。
(4) 抗結核剤の予防内服をする効果はどうか。
  日本では3才以下のツベルクリン反応自然陽転の場合には、抗結核剤(INH)の予防内服を公費負担でしていますが、それ以上の年齢では積極的には奨められていません。しかも予防内服の期間が6ヵ月です。1989年2月に結核予防法が改正され、集団感染が疑われる場合は29才以下までINHの予防内服が拡大され、またガフキー3号以上の大量排菌者との接触で、結核感染が強く疑われる場合にも、29才以下の者は予防投与が望ましいとされた。
  これに対してアメリカでは35才までのツベルクリン自然陽転者すべてにINH予防内服を大人で9ヵ月、小児では12ヵ月続けるように奨めています。これによるメリットはまず一生にわたって肺外結核の発病率が0になり、一生にわたっての発病率が自然経過(8~20%)の 1/5に減少し(80%予防できる)、内服後30年間の発病率が0.3%以下になるというのです。(現在はアメリカの一部の結核専門家は35才の年齢の制限はしていないと言っています。35才というのはこの年齢をこすと肝炎の発生率が高くなるからで、肝機能を検査して使えば良いというのです。)
  そして内服期間終了後は、日本の様に毎年検診をする必要はなく、発病した時に受診すればよいのです。もちろんINH内服中は発病しませんから、運動制限は一切ありません。(発病した人は本格的な治療が必要で、予防内服はあくまでツベルクリン反応が自然陽転し、しかもまだ発病していない潜伏期間にある人が対象です。)
  自然陽転者のうち、予防内服しなければ、5年以内に5~15%が発病し、発病率は3才以下が最大で、思春期、老齢者の順になります。5年以内に発病しなくても、その後3~5%は一生の間に発病します。自然陽転した人の一生の間の全発病率は8~20%です。(ハリソン内科学書)
  戦後まもなくの日本の調査では、初感染後の発病率が、3才以下70%、4~6才10%、小学生5%、思春期10%以上、成人1%でした。栄養状態も経済状態も良い今日ではもっと低くなっているはずですが。その後のデータは出ていません。
  BCG-レントゲン方式では、自然陽転した人は1年間運動を制限し、夏は海水浴も避け、発病をしないように気をつけなければなりません。しかもその後も毎年「いつ発病するか」と胸部レントゲン撮影を繰返すのです。そして身体に無理をした時に発病するのです。BCGは3才までと小1、中1の3回で終わり、高校生以上はツベルクリン反応を確かめずに(陰性でも)無条件で胸部レントゲン撮影を強制されます。確かに戦後まもなくは、高校生になるとほとんどが自然陽転していようですが、青木正和氏の推定では1986年現在の結核既感染率(自然陽転率?)
は、15才で2.3%、20才で4.5%程度とされていますから、胸部レントゲン撮影による一斉検診は根拠がなくなっています。
(5) そして医療被曝の問題があります。
  現在日本では医療被曝が野放しの状態ですし、その上更に日本医師会が規制を緩和させようとする動きがあります。
  毎年結核検診でレントゲン撮影が強制的に行われ、1988年には間接撮影2476万人、直接撮影91万人、発見患者数 5372人で発見率は0.022%でした。1987年の新登録患者数は56,496人で、90%の結核患者は、症状があって医療機関を受診し、見つかっているのです。健診が結核患者の発見に寄与していないのです。(健診後1年以内でも発病していますから、これでも国民が結核に対して関心がうすいというのでしょうか。)
  これだけ大量の不必要な医療被曝を受けている上、各医療機関で入院時、手術時など何かあるたびにとっている直接撮影を考えたら大変な数になります。その上どの程度各医療機関で被曝防御の対策をとっているかも疑問です。
  WHOの専門委員会は、1983年に「移動式集団間接X線撮影による無差別の結核発見の政策はいまや捨て去るべきである」と述べ、、1987年のWHOの小児専門委員会でもこれに同意し、更に直接胸部X線撮影でも「無差別の集団調査は全く正当性のないものである。」としています。
  被曝による影響は身体的影響(発癌性が主で、白内障、皮膚障害、造血障害、不妊症などは一定の線量以下ではおきません。)と遺伝的影響です。しかし、発癌性と遺伝的影響はどんな微量でも蓄積され、確率的効果によって生じてきます。最近の国際的な動向としては、「発癌性を考慮して被曝防護が十分行われれば、遺伝的影響は心配する必要はない」と云われており、発癌性にしぼられてきました。
  放射線の被曝の問題に関して、詳細はまた別の機会にしたいと思いますが、一つだけ言えば放射線診断医が極めて少ないことも医療被曝を減らせない原因だし、その上、年輩の放射線科医の多くが医療被曝を減らすことに熱心でないことも事実です。きちんとした放射線科の教育を受けた医師だけがレントゲンを扱えるようにもっと厳しい規制が必要です。
(6) どうすべきか。
 ①BCGは強制接種を廃止し、結核のハイリスク・グループに対して、任意接種とし、公費負担で残す。
 ②ツベルクン反応の定期的検査を隔年でし、WHO方式での自然陽転者にはINHの予防内服(小児では12ヵ月、成人で9ヵ月)を、公費負担または保険で実施する。
 ③学校、職場での強制的集団胸部レントゲン撮影(間接、直接とも)を廃止する。結核検診はツベルクン反応で行なう。但し、予防内服終了者はツベルクン反応も 必要なく、症状(熱、2週間以上の咳など)が出た時に、有症状者検診を受ける。
  集団検診は
 ④有症状者検診を制度化する。発熱、2週間以上の咳と痰、胸痛などの胸部症状のある人は、必ず検診を受けることができるようにする。その為には、検診の為の休暇は有給とし、無条件で取得できる権利を与え、取らせない場合には、雇用主に罰則を課すなど、取りやすい条件を作る。
☆ まずツベルクン反応の定期的検査をできれば毎年、最低隔年実施し、WHO方式での自然陽転者にINHの予防内服(小児では12ヵ月、成人で9ヵ月)をします。BCGは結核感染の危険の高い人だけにし、しかも任意接種とします。(BCGは自然陽転の判定を難しくする。)
  結核の早期発見はツベルクリン反応で行います。その際ツベルクリン反応陽性の判定基準をWHO方式に統一すべきです。WHOでは硬結を測定し、長径×短径が10×10㎜以上で判定しています。日本では集団接種では発赤の長径が10㎜以上だけで判定しています。日本の方式はBCGをする為に陽性者をはずすことを目的にし、WHO方式は結核発病の危険者を見つける為の違いと推定されます。
  青木正和氏の推定では1986年現在のこどもの結核既感染率(自然陽転率のことか?)は、5才で0.4%、10才で1.1%、15才で2.3%、20才で4.5%程度とされています。INHの予防内服は経済的にも実施可能です。
  しかもINHの予防内服を済ませたら、その後は結核発病が疑われる時に医療機関に受診すれば良いのです。今までの研究では発熱または2週間以上の咳のあるツベルクリン反応陽転者に血沈、喀痰検査、胸部レントゲン撮影をします。WHOの専門委員会は、胸部レントゲン撮影で陰影が見つかる様な人は必ず症状が出ていると云います。
☆ 私はBCG-レントゲン撮影と言う現行の結核対策としてとっているシステムを、ツベルクリン反応-INH予防内服と言うシステムに変えることを提唱します。これが将来40~50代までの結核を減少させることができる方法でしょう。
  予防内服をして発病を予防しなければ、こどもの初感染を防げず、初感染があれば、将来結核が発病する危険が出てくるのです。初感染がなければ(自然陽転しなければ)結核が発病する危険は全くないのです。
  BCGは結核の専門家が恐れているハイ・リスク・グループには、公費負担で任意で接種を続けることとし、他の多数のロー・リスク・グループは、原則廃止とし、希望者には任意接種で残すとすることです。
(7)結核政策の転換があるか?
☆ 「結核患者数の減少傾向がここ数年鈍り、とりわけ青少年の間で足踏み状態が続いていることが十四日、厚生省の「結核対策の現状」調査でわかった。」(1990.5.15.毎日新聞)と報道された。しかしその後十六日に行われたはずの公衆衛生審議会の結核予防部会の審議結果は報道されていない。その記事によると
  ◇人口10万人当たりの新規結核患者数は、昭和37年 403.2人、昭和61年46.6人
   その後は毎年45人前後で昭和63年は44.3人
  ◇15-19歳の罹(り)患率は昭和60年12.6人、昭和63年11.1人と大きな変化が
   ない。
  ◇人口10万人当たりの結核死亡率も昭和62年調査で、日本 3.3人、アメリカ 
    0.7人、イギリス 0.9人、フランス 2.1人、
  ◇厚生省はこの結果を分析して「結核に対する関心の薄さが問題」としている。
☆ その直後の1990.5.17.毎日新聞には「在日アジア人日本語学校生の結核患者が多数」とおおげさに報じています。これは「東京、大阪の日本語学校92校の約1万3千人から60人近い結核患者が見つかり、発見率は0.43%で一般の学校の0.01%の40倍」というものですが、日本の20~30代の発病率0.03%の14倍です。在日アジア人に限らず、発展途上国の自然陽転率が高いので、日本語学校生の社会経済状態の悪さから考えれば60人弱の発病者が出ても不思議ではありません。山谷、釜が崎を始め日本の低所得者層の沈殿している地域はもっとはるかに高いのです。それより在日外国人に対して健康保険制度に加入させないなど、社会福祉から除外していることの方が問題ではないでしょうか。
☆ 1989年10月の日本小児科医会ニュース第11号では、「小児結核の見直し」特集を組んでいますが、結論が出ないようです。各地方ブロック毎の報告の中で、対策を見ると・・・◇患者の受診の遅れ、一般住民の結核検診への受診率の向上、結核定期検診の受けられない集団の問題、健診にもれた者および有症状者のすみやかな診断、
◇医師の診断、治療の遅れをなくす。 
◇小児のINH予防投与。不要な化学予防を是正し必要な化学予防を普及させる。
◇在日アジア人など外国人への
結核予防対策。
◇「ツ」反応、BCG、陽性者への対応などの問題。
◇BCGの定期的接種、ハイリスク者の追跡、結核サーベイランスの活用。
  結核に関心の強い小児科医たちの意見で、少しは予防も考えているようですが、これでは結核は遅々として減らないのではないでしょうか。
☆ 厚生省は、医師や国民の関心の薄さが問題としていますが、関心をもっても現状は変らないでしょう。厚生省の結核を減らす対策は、BCG接種の強化、胸部の集団検診の徹底、そしてかかった人が早く自分で病院へ行き、医師に早く結核と診断してもらい、早く治療を受けることしかないのです。
  結核の専門家の見解では、患者が医療機関に折角かかっても、結核と診断を受け、適切な治療を受けるのに時間がかかり過ぎると云います。このことは別に最近始ったことではなく、それ故対策も立たないのです。
☆ 結核は排菌者が未感染のこどもたちや大人に感染させることから始まるのであって、排菌者(発病者)を減らすしかないのです。結核専門医たちの様に、結核は薬で治る病気だからと云って、発病した人を見つけて治療して行けば良いとする考えでは、これ以上結核を減らすことは難しいのです。治すかたわらで新しい患者が作られているのですから。いまや結核を減らすには、早期発見や早期治療ではなく、発病予防しかないのです。もちろんすぐ発病率減らすことはできませんが。
§6. 最後に
  インフルエンザ・ワクチンと同様に、日本では行政と業界との癒着が現状の変革を困難にしています。BCGワクチン・メーカーと医師会、レントゲン・フィルム・メーカーと検診業者、検診をしている医療機関などの多数が現在の結核医療に寄生しているので、運動を起こさない限り改善は実現しません。
文献
 1.ルネ・デュボス夫妻「白い疫病-結核と人間と社会-」1952.結核予防会(1982)
 2.C.F.サムス「DDT革命」(サムス回想録1962の一部訳)岩波書店(1986)
 3.Nelson ”Pediatrics”13版
 4.Krugman ”Infectious diseases of children”
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 7.J.Starke ”Modern Approach to the Diagnosis and Treatment ofTuberculosis in Children”;Pediatric Clinics of North America Vol.35,No.3,1988,p441
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 9.泉 孝英編「結核」 医学書院 1985
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 12.木村三生夫、平山宗宏編著「予防接種の手びき」近代出版、第四版1983
 13.砂原茂一、上田敏「ある病気の運命-結核との闘いから何を学ぶか-」東京大学出版会1984
 14.島尾忠男編「新結核病学概論」結核予防会,第六版1983
 15.D.Schlossberg editor ”Tuberculosis”second edition 1988
 16.青木国雄「日本のBCG接種の疫学的評価」;日本胸部臨床,Vol.34,11,p795
 17.特集「最近の小児結核」;小児科,Vol.21,No.13.1980,
 18.厚生省保健医療局結核難病感染症課編「結核の統計1987」結核予防会
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 20.戸井田一郎「結核後進国日本-現状と問題点」InnerVision(インナービジョン),Vol.2,No.4,1987,p26 マグブロス出版
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 22.安斎育郎、藤岡睦久ほか「医療被曝の不安-上手なX線検査の受け方-」;家庭画報,1988年10月号,p363
 23.黒部信一,「レントゲン撮影-毎年必要なの?」消費者リポート,第651号,
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 24.菅原努「被曝-日本人の生活と放射線」マグブロス出版,1984
 25.菅原努監修「放射線はどこまで危険か」マグブロス出版,1982
 26.WHO、藤岡睦久訳「WHO小児画像診断ガイドライン」金原出版,1987


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2017-03-26 10:53:18 | ブログ
皆様
 しばらく記事を更新せず申し訳ありません。いろいろなことがありまして、疲れてしまい、またパソコンが故障して修理するなど、じじょうがありました。
 今年は、私のモチーフを発揮させる年と思っていましたが、なかなか動きだせません。新学期を迎えて、新入生の気分でこれから臨みたいと思います。
 今、考えていることは、
 1.なぜ私がワクチンに批判的か、個々のワクチンに対する過去の論文をのせたいと思っています。これは、学会に出してもよいくらいの内容なので、今まで出さなかったのですが、ワクチンをしないと虐待とかネグレクトと言われないように、まずは私の本を買っていただいて、それをみせて虐待ではないと示すためです。
 2.私の医療に対する考え方は、私がみなさんの健康を守るのではなく、健康は自分で守るもので、私はそのための情報を提供するだけということを知って下さい。そのための資料を少しずつ出していきます。
 3.私の考え方や理論は、すべてオリジナルではなく、誰かの書からとってきて寄せ集めたものです。私は、その意味では、啓蒙家です。
でもそれでも後世に残しておきたいと思います。
 4.私は、医師は皆様にサービスを提供する職人であると考えています。「いしゃせんせい」とか「お医者様は神様だ」などということは大嫌いです。先生とも呼ばれたくないです。政治家や教員ではありませんから。あくまで職人ですから、職人として使って下さい。判断するのは皆さまです。私の祖父は、切手の彫刻の職人でした。アメリカへわたって彫金技術を学んできたのです。切手のカタログの明治の「世界大戦平和切手」ともう一つの彫刻技師として、黒部三記と書かれているのが祖父です。
 5.世界の歴史を見ると、フランスのアナール学派のいうように、隠されている事実があります。
 確かに、多くの小児科医が言うように、子育てはいろいろあります。でも歴史的に検証すると、良いと言われている子育てにも問題がありそうです。ワクチン批判者のあいだに流れている子育て法が本当に良いのか検証が必要です。
 そして、今日本の子育ては江戸時代と大きく変化しています。
 今日本で起きている子どもへの虐待、性暴力、発達障害、いじめなどは子育てが変化してるためではないかと憂いています。
 6.原発事故は二度と起こさせてはいません。すべて廃炉にしましょう。また高濃度放射線汚染地では、早く婦女子を避難または移住させましょう。それで残っている子どもたちのために、移住を継続したいと思います。
 これからもよろしくお願いします。