黒部信一のブログ

病気の話、ワクチンの話、病気の予防の話など。ワクチンに批判的な立場です。現代医療にも批判的で、他の医師と違った見解です。

来たれ新たな社会主義

2022-10-27 18:18:40 | 社会主義

           新たな社会主義を求めて

         新たな社会主義

 私は今まで、世界の動きを少ししか見ていず、取り残されていました。

ところが最近、ある遺伝子学者の友人から、日本では科学ジャーナリズムが育っていず、世界から10年は遅れていると言われて驚きました。

 そこへコロナウイルス肺炎のパンデミックが起きました。私の持っている知識と蔵書から、すぐに分析してブログに載せました。2020年2月だったと思います。今でもそれが通用します。そこへ斎藤幸平の「人新世の資本論」と「未来への大分岐」です。その流れでジジェクの「パンデミック」、ボヌイユの「人新世とは何か」、その他に「暴力と不平等の人類史」、「反穀物の人類史」、「サピエンス全史、上下」、「暴力の人類史」、「資本主義と危機」、「なぜ脱成長なのか」、「人体600万年史」などで、遅れているのに気づきました。

 そこで考えたのは、人は本来の体の働きを発揮していれば、病気をしないのではないかということです。けがは別です。特に感染症も、がんも生活習慣病も精神病もです。それで医療はコモンではないと思っていました。感染症は、すべて動物由来であり、動物を飼育したり、売買するようになって生じたものです。野生動物にうかつに近づいてはいけません。

 がんも生活習慣病も、精神神経免疫学から言うと、ほとんどが現代病であり、なりやすい遺伝子とそれを発現させる環境、特にがんなら発がん物質などや、それとストレスです。

 そしてそれに加えて、じっと我慢する性格はがんになりやすく、仕事人間のように、仕事に命を懸けているように働き続けるタイプは、心臓血管病つまり、心筋梗塞になりやすく、

高血圧があると脳卒中になりやすくなります。これらの病気の治療を開発しようとするよりも、発生を減らすことの方が早いのです。

 だから国によって、つまり社会システムによって発生する病気が違います。旧社会主義国は、社会主義体制をとっていた時と、社会主義をやめて以後では病気の発生頻度が変化しているはずです。今でも、自給自足の生活をしている民族はがんや生活習慣病が少ないはずです。遺伝子病も含めて先天性疾患の発生頻度は、ほとんど変化していません。

 医療は文化によって変わります。それはその社会によって変化します。狩猟と採集の世界では、医療はコモンではなく、電気と同じく、現代社会になってコモンとなってきたのではないかと思います。世界の歴史の見直しが必要だと思います。

 

 そこへ世界10月号の「戦争と奴隷制のサピエンス史」三宅芳夫の文でした。「地球生態系との関係(地球温暖化)で「人新世」という概念が提唱され」、「人類史規模の社会システム転換の必要性が認知されつつある」と言います。「大転換」が必要なことは疑う余地がないと。

 つまり地球温暖化の炭酸ガス原因説にはふれず、地球の生態系が壊されることにだけ触れています。政治的に避けているのかも知れません。人が原因の「人新世」ということには、結果的に賛同しかねますが、これが世の中の見直しが始まるきっかけになりました。

 斎藤幸平の言う脱成長のコミュニズムをはじめ、サンダースやいろいろな形で社会主義が提唱されています。「21世紀の資本論」を書いたピケティも社会主義者に転換したと言われていましたが、「来たれ、新しい社会主義」が出ました。その本の冒頭と、奴隷制の論文、それに「世界」の三宅論文を読むことをお薦めします。

 三宅は、「資本蓄積最大化の公理(つまり資本主義)を廃棄」し、「組織的に独占された暴力を最小化するシステム」が人類最後の希望であると述べています。

 今や、世界の先進国(北)内の貧困層(南)と発展途上国の多く(南)が、分断されています。かっての社会主義諸国や植民地から独立した諸国は、格差社会と貧困層、内戦などで多くの難民を出して難民社会を形成しています。

 私は、コロナによって気づかされました。パンデミックの起きる世界的な基盤、つまり格差社会と貧困層の拡大、福祉社会の削減が、世界中に渦巻いていたのです。その中で、その程度が比較的少ない日本や東アジア諸国に、コロナ感染が少なかったのです。

 中華文明は奴隷人口が顕著に少ないと言いますが、日本はどうなのでしょうか。

 債務により縛られる労働者も債務奴隷でありますから、遊郭の遊女たちは奴隷でした。それが東欧の旧社会主義諸国で広がっていると言います。

 狩猟と採集の社会、今でも残っているアフリカのブッシュマン族やアマゾンのピダハン族の社会では、戦争も奴隷制もない社会ですし、病気も少なかったのです。

 農耕と栽培、そして酪農の社会では、奴隷制と戦争と病気は切り離せません。そのつながりを、文明史、人類史として取り上げられてきたことに、私は気づかされたのです。

 これは急進啓蒙だけでは不十分です。多くの学者たちは、どうしたらよいかを口にせず、格差社会と貧困層の拡大をいうだけです。アメリカの社会学者デューイの社会分析を知り、それを実践したのがカストロでした。現代のカストロは、どこにいるのでしょうか。

 私は、慶応の学費闘争の原点に戻り、直接民主制による政治の決定、そのためには自主的な教育・自主講座や高等教育の普及、が必須と考えます。すべての重要事項の住民投票制、市町村の長だけでなく、首相の公選制など。

 沖縄が県知事選、衆参議員選ではオール沖縄側が勝つのに、地方自治体では負けるのは、自分の生活に密着した自治体でのことでは投票行動が違うのだと考えます。

 安倍政権が長く持続したのは、浮動票が投票されない状況、つまり焦点をぼかして選挙すること、固定票だけで戦う手法をとったのだという評論家もいました。

 そしてウクライナ問題では、世界10月号のムスト論文をお読みください。

                     

 

 


戦争と奴隷制のサピエンス史

2022-10-25 11:39:09 | 戦争と奴隷制

             戦争と奴隷制のサピエンス史

 「戦争と奴隷制のサピエンス史」三宅芳夫論文を読んで、感想と抜粋。

 戦争と奴隷制のサピエンス史を読んで

 これは雑誌世界の2022年10月号に載った「戦争と奴隷制のサピエンス史」を読んで、抜粋と感想である。ぜひ原文を読んで欲しい。

 私は、文明の歴史に興味を持ってきたが、ギリシャ時代以降しか知らなかったが、その頃には既に戦争も奴隷制もあった。民主主義も奴隷制の上に成り立っていた。だから、民主主義は、支配層による政治を正当化するための方便ではないかと考えている。特に現代では、代議制民主主義は、統治層である資本家たちのための手段でしかない。当面それに代わる手段は、直接民主制つまり一人一人の意思を反映させる住民投票しかないだろう。

 それと同時に旧社会主義が市民の意思を反映しなくなり崩壊したが、その結末は悲惨なものであったことである。まだ旧社会主義の方が生活はましだったのである。それで「21世紀の資本」を書いたピケティは、「来たれ、新たな社会主義」と2020年になって社会主義に転換した。斎藤幸平はその前から「脱成長のコミュニズム」を提唱している。私はマルクス主義を捨てず、旧ソ連の社会主義は間違っていると批判してきたが、崩壊してからの貧困層や高齢者たちの悲惨さは目に余るものである。それは毛沢東主義を捨てた中国も同じであった。

 それをこの論文で確認できた。現代世界の戦争は、中東やアフリカだけでなく、チトーの死後のユーゴスラビアから始まり、旧社会主義国全体へ広がった。現在のウクライナ戦争もその一部である。そしてその国が奴隷の供給源になったのである。香港の貧民窟は中国に併合されてなくなったが、社会主義をやめた中国は、膨大な貧民層である農民工を生み出した。それがコロナウイルスの流行の温床になった。そしてイタリアなどへの債務奴隷労働者や性奴隷を生んでいる。旧ソ連邦諸国も、モルドバをはじめウクライナ、ルーマニア、ロシア、アルバニアなどが性的人身取引つまり性奴隷の供給源である。それを教えてくれたのが、この論文であった。その行先は、西欧諸国や東南アジアの性市場である。

 奴隷制が資本主義ではなくならないようだ。日本でも奨学金という名の高利貸しが若者たちを債務奴隷にしている。銀行の利息がないのに、どうして奨学金に利息が付き、強制返還をさせられるのか。アジアからの研修生名目の労働者も債務奴隷である。それが出入国管理に現れている。

 ☆コロナウイルスが、第一に教えてくれたのは、貧困と格差社会の世界的な広がりであり、それがコロナの温床となった。そして次に教えてくれたことは、アメリカと西欧も貧困層をかかえる格差社会であり、貧困層がコロナの被害を受けたのである。西欧社会は、福祉社会を新自由主義の名で崩され、コロナの被害にあった。北欧と東アジアはまだ新自由主義がそれほどでなかったので、初期のコロナの被害が少なかったが、日本は経済の低迷と円安でこれから被害が目に見えてくるであろう。

 

 抜き書きと()内はコメント。

〇戦争は「建前」としては、国連憲章や国際法からすれば、違法なものであった。

  (だから戦争、内戦などはすべて犯罪であり、正しい戦争などはない。ロシアもウクライナもそれを支援して兵器を供給しているNATO諸国もアメリカも犯罪国である)

〇奴隷制はどうか。

肯定するものはいないが、現実には、状況は全く逆だ。

 数百万人の性奴隷が世界に存在する。それが冷戦終結後は、ウクライナ、モルドヴァ、ルーマニア、アルバニアなどから。多くは北米、西欧へ輸送された。

 また、タイ、フィリピン、ネパール、インドなど南アジア、東南アジアにおける人身売買による性奴隷制の拡大も留まるところを知らない。

 タイを中心とした東南アジアの性奴隷ビジネスは「中心地域」(または「北」)の「ペドフィリア=小児性愛者」の男たちに「性の楽園」を提供している。

〇債務奴隷は数千万人規模に上がる。

 BRICSと呼ばれるインド、ブラジル、南アフリカでも債務奴隷は深刻な問題だ。

 日本のいわゆる「技能実習生」問題も、グローバルな文脈では人身売買による債務奴隷問題と位置付けられる。(パスポートを取り上げることを犯罪とすべきである。人権侵害であるから。)                                   

◎現在、地球生態系との関係で「人新世」という概念が提唱され、人類史規模の社会システム転換の必要性が認知されつつある。もちろん、この意味での「大転換」が必要なことには疑う余地はない。 (確かに、地球生態系は企業つまり資本家階級によって破壊されてきた。)

 我々は、来るべき人類史的スケールの「パラダイム・チェンジ」において、地球生態系との関係を革命的に変革するとともに、戦争と奴隷制という「呪縛」からも解放されなければならない。

〇さかのぼれば、すべての古代の文明には戦争も奴隷制があった。

 もっとも好戦的であり、奴隷労働を社会の根幹に据えていたのは、古典古代のギリシャ・ヘレニズム・ローマ文明であった。アテネの奴隷は。全人口の30%を占めていたとすいていされた。中華文明も、全人口の中に占める奴隷の割合が顕著に低いとみられるが、戦争と奴隷が条件で成立していた。(日本はどうだったのか。研究者の登場を待ちたい。)

〇戦争の定義に「組織化された暴力の行使」があるとすれば、現在のアフリカのブッシュマンやアマゾンのピダハンは、暴力行為を忌避し、強制力もほぼ存在しない平等な社会においては、戦争はほぼ不可能になる。

 しかし、他のすべての先住民族たちには、戦争は存在した。北米の先住民も戦争を繰り返し、奴隷も所有していた。

 北西アメリカの先住民社会には、貴族、平民、奴隷という身分も存在した。

 アフリカの部族社会でも戦争と奴隷は存在した。

〇16-18世紀の大西洋奴隷貿易に際して、奴隷商人たちに奴隷を提供したのは、ベニン王国をはじめとするアフリカ部族国家であった。

 現在は観察されていないが、ブッシュマンやアイヌは、昔は戦争をしていたし、アイヌには「ウタレ」という奴隷も存在していた。

 多くの狩猟採集民は、戦争をしていたが、少なくともアフリカのピグミー諸族、ハツァ、ブッシュマン、北極圏のエスキモーたちは、1960年代には、戦争と奴隷制を放棄していた。

 このことは、少なくとも人類は状況と選択によっては、戦争と奴隷制という「呪い」から解放されうる、ということを意味している。

 しかし、近代世界システムからはいずれにせよ、次の、あるいは「他の」社会システムへと移行する、「させる」ことは避けられない。

〇スピノザは徹底した平等に基づいた民主制を構想し、構成員は「自然権」と「抵抗権」を保持するとした。

 スピノザの平等主義と民主制の思想を継承した「急進啓蒙」は、奴隷制の即時廃止、戦争の廃絶、民主制か否か、寛容の適用の範囲、経済的自由主義の是非、そして格差の是正など、はすべて穏健啓蒙と対立した。

 1793年フランスは、全フランス領の奴隷制を廃止した。それでハイチが、1801年黒人立憲共和国が誕生した。(その為に、莫大な債務をフランスの奴隷所有者から背負わされた。払い終わったのはつい最近のはず。それで政情は安定していない。)

〇この動きに不安を感じた穏健啓蒙は、保守主義を生んだ。

 この穏健啓蒙と急進啓蒙の対立は、19世紀には自由主義・保守主義と民主主義・社会主義の対立へと再編されていく。

 近代世界システムを主導したのは当然のことながら、統治階級の思想である自由主義・保守主義であった。この人たちは人種主義の信者であった。(日本の明治時代の統治者たちも同じで、植民地主義者であり、人種主義者である。)

 世界の主な運河も、大陸横断鉄道も、すべて奴隷労働で作られた。

〇自由とは何か。自由の概念は、アナーキズムの概念と資本主義やリベラリズムの概念とでは異なる。

 個人間の平等がなければ、自由はない。支配や強制があれば、自由ではない。

 (日本の政治は、どうか。)

〇戦争の主体は国家である。国家の暴力は戦争であり、国家以外の暴力はテロとされる。

 資本主義での利潤の最大化は、奴隷制であり、特に性奴隷制は純利益率約70%である。

〇戦争と奴隷制の克服のためには、近代社会システムから新しい社会システムへの移行は避けられない。

 従って、来るべき「カタストロフ」を回避するには、資本蓄積最大化の公理を廃棄し、組織的に独占された暴力を最小化するシステム、、これこそがわれわれ人類に残された最後の希望である。

 (人身取引の実態は、「性的人身取引」明石書店、に書かれています)。

 

 

 

 

 

 

 

 


気候変動の真実

2022-10-24 17:04:31 | 地球温暖化

   

  気候変動の真実

 この本の著者はニューヨーク代物理学科教授であるが、アメリカ政府や国連が評価しているのは、

 ・ 過去100年間、人間はハリケーンに明確な影響を及ぼしてはいない。

 ・ グリーンランドの氷床の縮小スピードは80年前と変わっていない。

 ・ 人間が引き起こす気候変動の最終的な経済的影響は、少なくとも今世紀末までは最小限にとどまる。

という。そして気候科学がこれほど未熟であったことに驚く。

 

  地球温暖化は、人間活動による炭酸ガスによるものか

      ―批判的グループの形成を呼びかける―

 二酸化炭素(炭酸ガス)地球温暖化説はおかしい。これもコロナウイルスの流行から学んだこと。

    私が疑問に思う訳は、一つは、地球は昔から氷期と間氷期を繰り返して来たはずでした。

だからちっぽけな人間が環境を変えることができるのは、核(原爆、原発など)しかないと思っていました。それでも、IPCCという専門家たちが言うのだからと、何も知らずに言われれるままに、地球温暖化はよくないと思い込んでいました。

 でもSGDsは麻薬だという斎藤浩平さんの意見を聞き、なるほどと思いました。新しい社会主義が必要だと思います。なぜなら、マルクスの社会民主党を引き継いできた北欧諸国の政治は、今一番人にやさしい社会ですから。

 そこで「人新世」という言葉を調べ、「人新世とは何か」という書を読みました。そこには人文社会科学と自然科学が分断されてきており、それは私が提唱する医学は社会科学であるということと同じことでした。気候学も社会学と分断されていたのです。すべての分野の科学を統合して判断すべなのでした。

 環境問題は、1972年の国連人間環境会議(ストックホルム)以後、環境問題は棚上げされ、リオデジャネイロ会議は開発会議であり、1997年の京都議定書は、国連気候変動枠組み条約の締結国会議でしかなかったのです。人間環境会議はどこへ行ってしまったのでしょうか。人間の環境問題は、主に福祉社会を追求する北欧諸国の提起であり、私の今の考えに進んだきっかけのロックフェラー大学の環境医学教授であったルネ・デュボスが議長でした。

 その後は、国連人間環境会議は開かれていません。

 気候変動は炭酸ガスによるものとの説は、突然出てきました。元々先進国は、炭酸ガスを出し続け、ロンドンの黒い霧から、アメリカの沈黙の春、ドイツの黒い森、日本も川崎と四日市の公害、東京も一時は都心部が排気ガスであふれ、光化学スモッグもあったのが、今はようやくそこから抜け出しました。しかし、原爆被害者も、その後の水俣病、カネミ油症などの被害者たちは、一部だけの救済で、多くの被害者は救済から外されています。

 福島第一原発事故も、いまだに原発事故緊急事態宣言が解除されていないのに、避難地区の一部が解除され、住民の復帰を促しています。

 しかし、世界の資本家たちは、第二次世界大戦(日本では15年戦争)で労働者の協力を得る為に譲った利益の分配を取り戻すべく、小さい社会を提唱し、新自由主義として、福祉社会を崩して、資本への利益を増やしていった。その一つが消費税であり、公営企業の民営化

であった。それが分かったのは、斉藤幸平さんの「人新世の資本主義」でした。

それで人新世を勉強しました。そこでアメリカの公衆衛生学者シゲリストや、全共闘時代の東大医学部長白木博次が提唱した、「医学は社会科学である」ということを、「人新世とは何か」では、分断された人文社会科学と自然科学の統合が必要であると、その歴史を明らかにしたのです。私の立ち位置は、そこでは「世界の周縁に追いやられた、ネオヒポクラテス学派」であったのです。確かにルネ・デュボスはヒポクラテスへ帰れと提唱していました。

私は、小児科医師連合の運動から、森永ヒ素ミルク中毒被害者の救援活動や、未熟児網膜症の被害者の救援から始まって、ワクチンの被害者救済、医療事故被害者の救済、そこからチェルノブイリ原発事故の被害者である子どもたちの救援に取り組んでいました。私がしてきた安保闘争などの運動は、私の子どもたちが若者になったら、継承してくれると信じていたら、その世代は氷河期世代で、正規雇用されず、労働組合にも無縁で、若くてもホームレスになってしまう世代でした。それを生み出したのは新自由主義です。それは国鉄民営化から始まったのです。その後の大きなことは郵政の民営化でした。それで新自由主義は大学や公務員まで派遣労働者だらけにして、所得税の累進性を廃止して上限をなくし、法人税も減税し、企業は内部留保をたっぷりとし、経営者たちは高額給与をとっています。

 私は、地球温暖化はよくないと思わされ、しかし、それに対してのSDGsやグリーンニューディールは、まやかしだと思っていました。確かに、消費社会はやめる必要がありました。日本の「もったいない」精神を生かすべきでした。

それもコロナ禍の社会が必然的にその方向へ進んだし、発展途上国の人々や先進国の貧困層がすべて文化的水準な生活を送ることを求めることは必然でした。

 ところが広瀬隆さんが、季刊「季節」で地球温暖化の炭酸ガス説は間違いとの論説を出して気が付きました。そこで広瀬隆さんの論文に出ていた本を読みあさりました。

 「二酸化炭素CO2によって地球が温暖化しているという説は科学的に全く根拠がないデマである」広瀬隆、講演録パンフ

 「地球温暖化説はSF小説だった」広瀬隆、八月書館

 「『地球温暖化』狂騒曲」渡辺正、丸善出版

 「気候変動の真実」S.E.クーニン、日経BP

 「地球46億年気候大変動」横山祐典、講談社ブルーバックス

 「異常気象が変えた人類の歴史」田家康、日経プレミアシリーズ

 「不機嫌な太陽」スベンスマルク/コールダー、恒星社厚生閣

 そこでやっとわかりました。「気候変動の真実」というクーニンの本では、アメリカやイギリスでは、Red グループという、地球温暖化二酸化炭素原因説に批判的なグループが形成されているというのです。日本ではそれがないようです。これから作る必要があると思います。

それで、私が一番説得的だと思った「不機嫌な太陽」を、あまりにも難しいので、私なりに書き直して、ブログに載せることにしました。翻訳もうまくありません。私すら読み続けるのが困難でしたから。順を変え、一部は文を書き直しました。

 宇宙線が雲を作り、雲が地球の温暖化と寒冷化の主因である。その宇宙線の変動は太陽と銀河系とさらに数十の銀河をもつ天空にあるというものです。前半だけでもお読みください。宇宙の話は、その説の裏付けにしか過ぎませんから。ただ、寒冷化が生物の進化や人間の登場を生んだという考えも納得しました。 「不機嫌な太陽」は、9章まであり、一度に載せられないので、少しずつ書き直した順に載せています。