ポリオの歴史を見てみましょう。そこに、不活化ワクチンが効かないと私が言う根拠があります。
川喜多愛郎編「小児マヒ」(岩波新書)に詳しく書かれていますが、そこには環境という社会的な観点が欠落しています。その環境は、労働運動の中で、大争議(ストライキ)が起き、その住まいの「炭住(炭鉱労働者住宅)」が劣悪な環境に置かれ、そこにストライキという状況があり、子どもたちにポリオが集団発生したのです。
その時既にポリオ不活化ワクチンはありました。アメリカから入り、使われていましたが、流行を阻止できず、母親たちの運動とそれを支援した放送労働者の組合が先頭に立った運動で、当時の厚生大臣の決断で緊急輸入されたソ連とカナダのポリオ生ワクチンによって3年後には二けたの発生となる程、流行が急速に終わったのです。
生ワクチンの効果は明らかでした。
この時、不活化ワクチンは効果がなかったのです。
ポリオ不活化ワクチンの効果はありません。
小児麻痺(ポリオミエリティス)ワクチンの話
ポリオというのは、Poliomyelitis(脊髄灰白髄炎)という、まれに四肢の片側の神経麻痺を起こす病気で、ほとんどが小児期にかかるので「小児麻痺」といわれて来ましたが、大人でもかかることのある病気です。
ポリオは生ワクチンができるまでは、誰でもかかる可能性がある病気でした。昭和36年以前に生まれ人は、ポリオ生ワクチンを飲んでいない可能性があります。
もちろん私も飲んでいませんが、発病してもいません。しかし、私の小学一年の時の同級生に一人片脚が麻痺して装具をつけて歩いていましたし、私の中学時代の英語の教師は、いつも左手をポケットに入れていて、私は小児まひの後遺症だと思っていました。昔は当たり前のように、よく見られる光景でした。どこか麻痺がある人は、ポリオにかかって起こしたものと思っていました。
日本では、問題になったのは第二次世界大戦以後のことです。
〇1950年代には1300~3000人程度の発病が見られていたのですが、1960年に5000人を超える小児麻痺患者が発生し、社会問題になったのです。重症だと呼吸筋麻痺を起こすために、当時は人工呼吸器がなく、「鉄の肺」と呼ばれた機械の中で、人工的に陰圧をかけて肺を膨らませてはそれを解除すると言う形での人工呼吸をして延命し、自然治癒すると麻痺が回復して呼吸ができるようになるのです。そして後遺症として一部の神経麻痺が残ることがありました。
私もまだ大学一年の時で、小児科医になった時には、流行も終わり鉄の肺は小児病棟の物置にしまわれていました。(今はかかっても人工呼吸器が発達していますから死ぬことはありませんが、後遺症して手足のどこかに麻痺が残ることがあります)
〇 ポリオが大流行した裏には、当時の社会状況を見なければなりません。
というのは大流行したのは、「炭住(たんじゅう)」と呼ばれた劣悪な衛生状態の炭鉱労働者の住宅にあったのです。戦後まもなくの日本では、石炭がエネルギー源として使われ、黒いダイヤモンドとも呼ばれ、日本中で掘られていました。その労働条件は劣悪で、会社側は大儲けしていたのです。麻生財閥もその一つです。
それに対し、労働者は組合を結成し、総評(労働組合総評議会―社会党、共産党系)に結集して、今は形骸化した春闘などの戦いで労働条件改善と賃金引上げの戦いをしていたのです。
昭和35年(1960年)の賃上げ闘争は、戦後の労働運動史上の最大の戦いで、最後の戦いとなったのです。ちょうど60年安保闘争と時を同じくしていました。労働側と経営側の総決戦とも言われ、すべての労働組合は一緒に戦ったのですが、炭鉱労働者の組合が最も強く、結束力も高く、常にデモの先頭で、リーダーの笛のもとに炭鉱服で炭鉱靴をはき、頭にはヘルメットと炭鉱ライトをつけて機動隊に対峙したのです。重労働であるので体格の良い労働者でしたので、機動隊と決してひけをとらない労働者部隊でした。彼らがデモをすると、私たち学生はひ弱な子どもにしか見えないくらいでした。その部隊が、指令のもとに笛で統一を取りデモ行進すると、堂々たるものでした。
政府と経営者側は、それを崩すために会社側の言うなりになる第二組合を作り、第一組合の「炭労」をつぶそうとしたのです。その戦いが続いていた時に、炭鉱労働者の子どもたちにポリオが多発したのです。ですから、地域はすべての炭住とその周辺で、すべて炭鉱のある地域でした。大都市にはほとんど流行しなかったのです。特に三井炭鉱会社の三池炭鉱の戦いが有名です。
炭住は、その後「幸せの黄色いリボン」に取り上げられましたが、せまくて汚い長屋でした。もちろん、当時はどこでも便所は汲み取り式でした。若い人は知らないと思いますが、江戸時代に作られたし尿の処分をする方法で、便所に便つぼを置き、そこへ大小便をし、それを汲み取り式にして、汲み取って行き、それを畑の肥料にしていたのです。
余談ですが、私はその歴史を知りませんが、江戸時代には八百八町のすべてを近隣の村が縄張りを決めて汲み取り、上水と共に、百万都市の江戸を上下水処理の世界一清潔な街にしていたのです。
パリでは便器にとり、道路にすてていたし、川の橋の上に便所を作り、そこで排泄して、セーヌ川は糞尿まみれでした。その解決のために地下に下水道が掘られたのです。ヨーロッパでのペストの終焉は、下水道が作られて、生息するネズミが、ペスト菌を媒介するくまネズミから、しないドブネズミに変わったこともあるのではないかとの仮説を作ったのですが、証明はできませんでした。ベルサイユ宮殿にはトイレがなかったのです。
当時の日本には、厠(かわや=便所)がありました。
日本は上下水道共に、他の国に見られない先進的な仕方をしていました。
話をもとに戻して、炭住を中心に爆発的に流行したポリオに対し、当時も作られていた不活化ポリオワクチンは効果がなく、カナダとソ連で作られていたポリオ生ワクチンが、厚生大臣の英断で緊急輸入され、流行が終わったのです。この時の運動は、母親たちの運動と放送労働者の組合が先導したのです。
この時、アメリカ製の不活化ワクチンは効果がなかったのです。ポリオ生ワクチンにより3年でほとんどなくなりました。4年後には、二けた以下の患者数になりました。
今の不活化ワクチンは、その時と同じ手法で作られています。しかも野外実験では、有効との証明がありません。有効だと言っているのは、血液中の抗体価が上がっているからなのです。
しかし、本当に有効なのは、ポリオウイルスが侵入する入り口の、腸の粘膜の細胞免疫ができているかどうかです。生ワクチンではできますが、不活化ワクチンではできません。
その為、まだ流行している地域では生ワクチンを飲ませています。効かないからです。
では、なぜ不活化ワクチンをしているかと言うと、一つは行政がワクチンを中止した為に、ポリオが流行することを恐れています。二つ目は、ポリオの製造会社は一社で、生ワクチンを廃止したら倒産します。三つ目に、接種することにより、メーカー、接種者(医療機関、医師)たちが利益を得ます。
私は、もうポリオのなくなった国は、不要なワクチンになったと考えます。種痘と同じように廃止すべきです。無効なBCGと日本脳炎ワクチンも廃止すべきです。
川喜多愛郎編「小児マヒ」(岩波新書)に詳しく書かれていますが、そこには環境という社会的な観点が欠落しています。その環境は、労働運動の中で、大争議(ストライキ)が起き、その住まいの「炭住(炭鉱労働者住宅)」が劣悪な環境に置かれ、そこにストライキという状況があり、子どもたちにポリオが集団発生したのです。
その時既にポリオ不活化ワクチンはありました。アメリカから入り、使われていましたが、流行を阻止できず、母親たちの運動とそれを支援した放送労働者の組合が先頭に立った運動で、当時の厚生大臣の決断で緊急輸入されたソ連とカナダのポリオ生ワクチンによって3年後には二けたの発生となる程、流行が急速に終わったのです。
生ワクチンの効果は明らかでした。
この時、不活化ワクチンは効果がなかったのです。
ポリオ不活化ワクチンの効果はありません。
小児麻痺(ポリオミエリティス)ワクチンの話
ポリオというのは、Poliomyelitis(脊髄灰白髄炎)という、まれに四肢の片側の神経麻痺を起こす病気で、ほとんどが小児期にかかるので「小児麻痺」といわれて来ましたが、大人でもかかることのある病気です。
ポリオは生ワクチンができるまでは、誰でもかかる可能性がある病気でした。昭和36年以前に生まれ人は、ポリオ生ワクチンを飲んでいない可能性があります。
もちろん私も飲んでいませんが、発病してもいません。しかし、私の小学一年の時の同級生に一人片脚が麻痺して装具をつけて歩いていましたし、私の中学時代の英語の教師は、いつも左手をポケットに入れていて、私は小児まひの後遺症だと思っていました。昔は当たり前のように、よく見られる光景でした。どこか麻痺がある人は、ポリオにかかって起こしたものと思っていました。
日本では、問題になったのは第二次世界大戦以後のことです。
〇1950年代には1300~3000人程度の発病が見られていたのですが、1960年に5000人を超える小児麻痺患者が発生し、社会問題になったのです。重症だと呼吸筋麻痺を起こすために、当時は人工呼吸器がなく、「鉄の肺」と呼ばれた機械の中で、人工的に陰圧をかけて肺を膨らませてはそれを解除すると言う形での人工呼吸をして延命し、自然治癒すると麻痺が回復して呼吸ができるようになるのです。そして後遺症として一部の神経麻痺が残ることがありました。
私もまだ大学一年の時で、小児科医になった時には、流行も終わり鉄の肺は小児病棟の物置にしまわれていました。(今はかかっても人工呼吸器が発達していますから死ぬことはありませんが、後遺症して手足のどこかに麻痺が残ることがあります)
〇 ポリオが大流行した裏には、当時の社会状況を見なければなりません。
というのは大流行したのは、「炭住(たんじゅう)」と呼ばれた劣悪な衛生状態の炭鉱労働者の住宅にあったのです。戦後まもなくの日本では、石炭がエネルギー源として使われ、黒いダイヤモンドとも呼ばれ、日本中で掘られていました。その労働条件は劣悪で、会社側は大儲けしていたのです。麻生財閥もその一つです。
それに対し、労働者は組合を結成し、総評(労働組合総評議会―社会党、共産党系)に結集して、今は形骸化した春闘などの戦いで労働条件改善と賃金引上げの戦いをしていたのです。
昭和35年(1960年)の賃上げ闘争は、戦後の労働運動史上の最大の戦いで、最後の戦いとなったのです。ちょうど60年安保闘争と時を同じくしていました。労働側と経営側の総決戦とも言われ、すべての労働組合は一緒に戦ったのですが、炭鉱労働者の組合が最も強く、結束力も高く、常にデモの先頭で、リーダーの笛のもとに炭鉱服で炭鉱靴をはき、頭にはヘルメットと炭鉱ライトをつけて機動隊に対峙したのです。重労働であるので体格の良い労働者でしたので、機動隊と決してひけをとらない労働者部隊でした。彼らがデモをすると、私たち学生はひ弱な子どもにしか見えないくらいでした。その部隊が、指令のもとに笛で統一を取りデモ行進すると、堂々たるものでした。
政府と経営者側は、それを崩すために会社側の言うなりになる第二組合を作り、第一組合の「炭労」をつぶそうとしたのです。その戦いが続いていた時に、炭鉱労働者の子どもたちにポリオが多発したのです。ですから、地域はすべての炭住とその周辺で、すべて炭鉱のある地域でした。大都市にはほとんど流行しなかったのです。特に三井炭鉱会社の三池炭鉱の戦いが有名です。
炭住は、その後「幸せの黄色いリボン」に取り上げられましたが、せまくて汚い長屋でした。もちろん、当時はどこでも便所は汲み取り式でした。若い人は知らないと思いますが、江戸時代に作られたし尿の処分をする方法で、便所に便つぼを置き、そこへ大小便をし、それを汲み取り式にして、汲み取って行き、それを畑の肥料にしていたのです。
余談ですが、私はその歴史を知りませんが、江戸時代には八百八町のすべてを近隣の村が縄張りを決めて汲み取り、上水と共に、百万都市の江戸を上下水処理の世界一清潔な街にしていたのです。
パリでは便器にとり、道路にすてていたし、川の橋の上に便所を作り、そこで排泄して、セーヌ川は糞尿まみれでした。その解決のために地下に下水道が掘られたのです。ヨーロッパでのペストの終焉は、下水道が作られて、生息するネズミが、ペスト菌を媒介するくまネズミから、しないドブネズミに変わったこともあるのではないかとの仮説を作ったのですが、証明はできませんでした。ベルサイユ宮殿にはトイレがなかったのです。
当時の日本には、厠(かわや=便所)がありました。
日本は上下水道共に、他の国に見られない先進的な仕方をしていました。
話をもとに戻して、炭住を中心に爆発的に流行したポリオに対し、当時も作られていた不活化ポリオワクチンは効果がなく、カナダとソ連で作られていたポリオ生ワクチンが、厚生大臣の英断で緊急輸入され、流行が終わったのです。この時の運動は、母親たちの運動と放送労働者の組合が先導したのです。
この時、アメリカ製の不活化ワクチンは効果がなかったのです。ポリオ生ワクチンにより3年でほとんどなくなりました。4年後には、二けた以下の患者数になりました。
今の不活化ワクチンは、その時と同じ手法で作られています。しかも野外実験では、有効との証明がありません。有効だと言っているのは、血液中の抗体価が上がっているからなのです。
しかし、本当に有効なのは、ポリオウイルスが侵入する入り口の、腸の粘膜の細胞免疫ができているかどうかです。生ワクチンではできますが、不活化ワクチンではできません。
その為、まだ流行している地域では生ワクチンを飲ませています。効かないからです。
では、なぜ不活化ワクチンをしているかと言うと、一つは行政がワクチンを中止した為に、ポリオが流行することを恐れています。二つ目は、ポリオの製造会社は一社で、生ワクチンを廃止したら倒産します。三つ目に、接種することにより、メーカー、接種者(医療機関、医師)たちが利益を得ます。
私は、もうポリオのなくなった国は、不要なワクチンになったと考えます。種痘と同じように廃止すべきです。無効なBCGと日本脳炎ワクチンも廃止すべきです。