人新世の資本論を読んで
「人新世の資本論」(斉藤幸平)を読んで感じたことと、半分は抄録です。まぜこぜになりましたが、私の気持ちです。次に「脱成長のコミュニズム」を載せます。2020年9月に斉藤幸平の本を知ってから、私の考えがまとまってきました。また二十代の昔に戻った気持ちです。ジグザクデモの名目上の指揮者になり、その後随分長くマークされました。私には怖いものはありません。今の若い人たちは、すぐ「怖いとか、恐ろしい」とか言いますが、私には何ということのない、想定内のことばかりです。誰かが言っていたことですが、「武士は、家の敷居をまたいで一歩外へ出たら、七人の敵に会う」ということをいつも考えて歩いています。安心、安全な社会は、自分の自由を売り渡して得ていると、あるアメリカ人が日本を評して書いていました。私の学生時代に慶応の文学部の教授(名前がどうしても出てきませんが)が言うには、自由や民主主義にはいくつもあると。資本家にとっての自由とは、搾取し掠奪する自由なのです。学生運動時代から遠ざかっていましたが、また私を元気にしてくれる時代が出てきました。
人新世の資本論を読んで思うこと
☆ この書は「大洪水の前に」の後に書かれた啓蒙書ないしは啓発書のようです。
これはマルクスの有名な言葉の引用からで「どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのであるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである」。
だから「大洪水がやってくる前に、『私たちはすべてを変えなくてはならない』」という。
☆ 人新世の資本論の「はじめに」は、「SDGs(持続可能な開発目標)は「大衆のアヘン」である!」で始まります。
かってマルクスは、資本主義のつらい現実が引き起こす苦悩をやわらげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、という。
人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」と名付けました。
そして気候危機は、既に始まっています。「100年に一度」と呼ばれる異常気象が毎年、世界各地で起きています。もうすぐそこに「急激で不可逆な変化が起きて、以前の状態に戻れなくなる地点」が迫っています。
☆ グローバル・サウスとグローバル・ノース
グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域およびその住民を指す。
現代では新興国の抬頭と先進国への移民増大による格差社会の進行によって、先進国内での貧困の増大も激しくなり、地理的位置と関係が無くなりました。マルクスの言う万国のプロレタリアートではないだろうか。
しかし、現代では、資本家と労働者という分類ではおさまらなくなり(ジジェクの「パンデミック」参照)、あえてこのような言葉で表現しています。言い換えれば世界のレベルでの「富裕層」と「貧困層」ではないでしょうか。先進国の貧困層をグローバルサウスに含めています。
グローバル・ノース(先進国を中心に世界の富裕層)における大量生産、大量消費型の社会を「帝国的生活様式」と呼ぶ。それはグローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪によって成り立っているのです。
日本もそこに住む我々も、グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化を、つまり資本主義の収奪を前提として、生活しているのです。それが見えなくなってしまっています。
先進国に次いで、発展したのは韓国、台湾、香港、シンガポール、そして中国と言われた時代がありました。今はブリックス諸国(BRICS)、つまりブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカという人口の多い国で、発展している国々です。
それで分類が難しくなり、グローバル・ノースとグローバル・サウスという呼び方が始まったと思います。当初は世界の南北問題が、格差社会の進行で、世界の富裕層と貧困層のことを指すようになったのです。
☆ 労働者だけでなく、地球環境も搾取と収奪の対象になっています。
その為の気候変動なのです。しかし、それも限界に来ています。もう世界には安価な労働力も安価な自然も消滅しつつあります。
資本主義が経済成長を優先する限り、気候変動を止められないとグレタ・トゥーンベリは訴えました。しかし、資本は成長を止められません。だから資本主義を止めるしかなくなっています。
☆ マルクスは環境危機を予言していたと斉藤幸平はいう。
資本主義は自らの矛盾を他へ転嫁し、見えなくしてしまう。だが、その転嫁によって、
更に矛盾が深まって泥沼化していくことが必然的に起きるであろうと。しかし、資本による転嫁は最終的に破綻する。
〇そして斉藤幸平は、三種類の転嫁を述べるが、それは
(1)技術的転嫁――生態系のかく乱
マルクスは農業による土壌疲弊を扱った
(2)空間的転嫁――外部化と生態学的帝国主義
この点もマルクスは土壌疲弊の問題として扱っている
(3)時間的転嫁――「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
マルクスは森林の過剰伐採を扱うが、現代では気候変動である
そして資本主義より先に、地球がなくなってしまう
☆ 新型コロナは、その矛盾を拡大し、見えるようにしてくれたのです。
「大洪水」は今まさに「すぐそばに」せまってきているというのです。今、自分たちの「帝国的生活様式」を見直さないといけないという現実に直面しています。
だから「大分岐」なのだ。今まさに我々は選択を迫られています。
ローザ・ルクセンブルク(ドイツの女性社会主義者で暗殺された)の「社会主義か、野蛮か」というスローガンが生き生きと再登場してきました。野蛮を防ぐにはどうしたらよいだろうか。
☆グリーン・ニューディールはどうか
これは気候ケインズ主義だと斉藤幸平は切り捨てます。グリーン・ニューディールの最後の砦がSDGs(持続可能な開発目標)なのです。これは「緑の経済成長」を掲げています。それは可能なのか。
気候ケインズ主義というのは、気候におけるケインズ経済学のやり方で、ケインズはマルクス経済学の台頭に対抗して出てきた資本主義擁護の経済学です。しかし、歴史の中でもう当てはまらなくなり、学問的価値は落ちています。
ニューディール政策とは、アメリカが1930年代に経済停滞した時に、経済に政府が介入し、公共投資を行ない、社会保障も行なったルーズベルト大統領の政府がとった政策で、それでアメリカ経済が復活したのです。
〇「地球の限界」を、2009年ロックストロームが提唱
地球システムには、自然本来の回復力が備わっている。だが、一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、急激かつ不可逆的な、破壊的変化を起こす可能性がある。これが「臨界点」であると。
この考え方は正しいと思う。それはまさに「人間そのもの」にそういう現象があるからです。例をあげれば、過重労働です。人間の体に負荷をかけると、その臨界点を超えるともう元に戻れなくなります。その結末は、うつ病による自殺、心筋梗塞、脳卒中、癌の発病です。
ロックストロームは、その臨界点を9項目にして測定しようとしました。(気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、待機エアロゾルの負荷、化学物質からの汚染の9項目)
しかし、ロックストロームの測定では、気候変動や生物多様性などの4項目は既に「地球の限界」を超えてしまっているというのです。人類は、自然を支配しようとした結果、地球環境を取り返しのつかないような形に変えてしまっています。2019年ロックストロームは「緑の経済成長という現実逃避」という自己批判をしました。経済成長か、気温1.5℃未満の上昇か、どちらか一方しか選択できないことが判ったのです。ロックストロームの結論は、経済成長をあきらめることでした。
〇ティム・ジャクソンの「成長なき繁栄」では、先進国ではエネルギーの消費の効率化は進むのですが、後続して進むブリックス諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)などは逆に悪化しています。産業革命以来の資本主義の歴史をみれば、経済成長は化石燃料を大量に使用することによって成し遂げられたのです。経済成長と化石燃料は、不可分、つまり切り離せない程密接に関連しています。
〇この事態を、「効率化すれば、つまり技術進歩が、環境負荷を増やす」という「ジェヴォンズのパラドックス」(1865年)が説明してくれます。
〇市場の力では(ケインズ主義経済学では)気候変動は止められません。
世界の富裕層が「裕福な生活様式」によって二酸化炭素を排出しています。世界の富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているというデータも出されています。世界の下から50%の人たちは全体の10%しか排出していないのです。
☆しかも、先進国に住む人たちのほとんどは世界のトップ20%に入っており、日本人のほとんどは世界のトップ10%に入っていると考えられます。つまり、私たち自身が、自分の享受している「帝国的生活様式」を抜本的に変えていかなければ、気候危機にたちむかうことなど不可能なのです。
☆ 電気自動車の本当のコスト
それは原子力発電の本当のコストと同じなのです。原料の生産から、廃棄処分までを計算
すると高額になります。決して安くはありません。電気自動車に使われている原材料を、採掘から加工の費用まで計算するとそうなります。
☆ 人新世の生態学的帝国主義
「緑の経済成長」を目指す先進国の取り組みは、社会的・自然的費用を周辺部へと転化しているのに過ぎません。鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量です。 膨大な天然資源を消費しています。それは殆ど循環せずに消費されています。資源総消費量を大幅に減らさなければならないのです。
(バイオマスとは、自然の動植物を使った有機的資源のことです。わかりやすく言えば、家庭の生ごみなどを肥料にしたりすることなど)
電気自動車の生産は、その原料の採掘にも石油燃料が使われ、二酸化炭素が排出されます。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えます。
国際エネルギー機構によれば、2040年までに電気自動車は現在の200万台から2億8000万台にまで伸びるといいます。ところがそれによって削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのです。
〇バイオマス・エネルギーの導入によって二酸化炭素排出量をゼロに実現しつつ、大気中の二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯留する技術もそう簡単には実現はしません。
バイオマスには膨大な農地が必要になるし、二酸化炭素を貯留するにも大量の水が必要になります。これはマルクスの言う「転嫁」にしか過ぎません。
結局は、グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、経済のスケールダウンとスローダウンなのです。
☆ 気候変動への適応とは、気候変動はもう止められないということだといいます。
そこで出された答えは一つで、成長を止めること。つまり脱成長ということが選択肢になるのです。今まで、ずっと経済成長が善であると語られてきました。経済成長によって貧困者を救えると。しかし、どうもそうではなさそうです。
☆ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」であり、彼女の言う「地球の生態学的限界のなかで、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全体の繁栄が可能になるのか」という問いであったのです。その結論は、持続可能性の為には、現在の世代は、一定の限界内で生活しなくてはなりません。
1日1.25ドル以下で暮らす14億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%
を再分配すれば足りるというのです。
☆ 経済成長と幸福度は相関するのか
いくら経済成長しても、その成果を一部の人々が独占し、再分配を行なわないなら、大勢の人々は潜在能力を実現できず、不幸になっていきます。
☆ そこで未来の選択肢となるのは
国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助の実践を、人々が自発的に展開し、気候危機に取り組む可能性があるのです。それが公正で、持続可能な未来社会のはずです。
アメリカのサンダースもイギリス労働党のコービンも、グリーン・ニューディールでした。
☆左派ポピュリズムを支えたのは、主にZ世代と呼ばれる1990年以降生まれの世代(30歳以下)です。ついでミレニアル世代(アラフォー以下)だといいます。彼らを、斉藤幸平はジェネレーション・レフトと呼ぶ。
ちょうど私たち70歳以上の世代が若い時には、多くが左派であったように。私が大学生協の常任理事を務めていた当時、慶応の学生の3割しか左派がいなかったのですが、東大や多くの国立大では9割が社会党、共産党支持でした。慶応の学費闘争の後に、一時的には慶応でも左派が増え全学自治会を制しました。それがジェネレーションでしょうか。
☆ 斉藤幸平は「取り残される日本の政治」という。失われた30年ともいう。
しかし、私はそうは思わない。私たちが闘ってきた時代は、若者たちが政治を動かした。
慶応で学費反対闘争が起こり、バリケード、直接民主制、自主講座という闘争形態を生み出した。学費値上げは阻止できなかったが、学費は物価連動制となり、医学部の授業料が、私学の中では最も安い大学となったのです。それが1964年のことでした。
今判ったことですが、同じ1964年に、アメリカではカリフォルニア大学バークレー校でマリオ・サヴィオを中心とした学生たちが抗議の運動を展開していたことです。
アメリカでベトナム反戦運動が起きた頃に、日本でもベトナム反戦運動が起き、べ兵連が登場しました。私は、また20~30年後に、アメリカでも日本でも、若者たちが立ち上がる時が来ることを予想し、期待してきました。今若者たちは、社会への不満を、暴走したり、いろいろな問題行動をして叛逆しています。そのエネルギーが政治的になると、また若者たちの運動が起きます。
☆ 今まさにその時が来ました。そして「未来への大分岐」の中で、マイケル・ハートは「(イギリス)労働党のなかでもコービンを支持している核の存在なのですが、・・・。活動の中心になっているのは、三十五歳以下の若者と七十歳以上の高齢者で、・・・。」
「若い支持者たちは、サンダース支持者にとても似ています。」
日本もその時代が来たのです。斉藤さんが呼びかけたのです。若い人か抬頭してくることを私は待っていました。私たちの世代は二十歳代を先頭に闘ったのですし、マルクスだって26歳で新聞に評論を書いたのです。若い世代が新しい社会を築くのです。
斉藤さんは「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ」という。
☆ コモンという考え方
コモンとは、社会的に共有され、管理されるべきと見のことを指す。
水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として自分たちで民主的に管理する
ことを目指す。「社会的共通資本」とも似ているが、
コモンは専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。
最初は医療もコモンに入ると思っていましたが、歴史を見たら、農業が始まる以前には医療は怪我の治療位であり、農業の開始、産業革命、資本主義社会の進行と共に、病気が増えて医療が必要になったのです。もっと穏やかな社会にすれば、医療の必要性は大きく減ります。私のしている育児法は子どもの病気を減らします。大人の病気も減らせます。だから水や空気とは違い、医療はコモンとは言えないのです。
そして最終的には、このコモンの領域を拡大していくことで、資本主義の超克を目指す。
マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段をコモンとして、共同管理・運営する社会のことだった、と明快に解いてくれる。
コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまったコモンを意識的に再建する試みにほかならない。
マルクスはコモンを再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいたという。
労働者たちの自発的な相互扶助<アソシエーション>が<コモン>を実現するという。
グレーバーは資本主義の下でアソシエーションを実現する方法が、福祉国家だった。
しかし、それを解体したのが新自由主義だったから、歴史は元に戻らず、次の社会を構築するしかない。それは何か。
☆ そこでマルクスの復権、再構築を目指す
〇リービッヒの「掠奪農業」批判にマルクスは感銘を受けた。
人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、地球上で、生きている。この自然との循環的な相互作用を、マルクスは「人間と自然との物質代謝」と呼んだ。
人間はほかの動物と違う関係を結ぶのが「労働」だというが、私は異議を唱える。昆虫には、人間と同じように労働している種族がいるのではないか。しかし、結論には納得する。
「人間の労働は」、「人間と自然の物質代謝」を制御・媒介する、人間に特徴的な活動である。
マルクスは、資本主義は物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告した。
マルクスはリービッヒの「掠奪農業」批判を超え、過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅などのエコロジカルなテーマを資本主義の矛盾として扱っていたという。
〇ドイツ農学者のフラースは、古代文明の崩壊過程を描く。フラースは過剰な森林伐採のせいで、地域の気候の変化、そして農業が困難になったせいだという。これに注目していたという。資本が環境を変え、そして環境が破壊されて、文明が崩壊するという。
☆資本主義の下では、持続的な成長は不可能であるからと、マルクスはその後の世界をエコ社会主義と描いたという。
〇ヨーロッパ中心主義はどうか。
サイードのマルクス批判に応え、それを晩年に脱却したという。
(エドワード・サイードは、パレスチナ生まれのアメリカ人でアラブ系学者の代表。ヨーロッパ文化批判の「オリエンタリズム」著者)
〇当時のロシアには、ミールと呼ばれる農耕共同体が残存していた。それをナロードニキたちが広げようとしていた。(ナロードニキは、19世紀末期のロシアの社会主義者たちで「人民の中へ、ヴ・ナロード」を提唱し農村へ入った)
ロシアにおける土地の共同所有
アジアにおける村落共同体
古代ゲルマン民族の共同体である「マルク協同体」
共同体の中に平等主義に出会う
イスラエルのキブツ、日本のヤマギシズムや幾つかの試みの中にも共同体思想はあった。
☆ 持続性と社会的平等
農耕共同体の再評価
社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。私にとって、資本主義は医療、つまり人間の精神、身体を破壊する。自然の治癒力を破壊する。
◎ 「新しい合理性」― 大地の持続可能な管理のために
<これは資本主義の下での合理性ではなく、「新しい合理性」である。医療でも、政府厚生労働省や多くの医学者は「科学的根拠」という言葉の下に、ちっとも根拠のないことを科学的と称してきた。今回のコロナ対策の大半は、そうである。スウェーデン政府の衛生政策担当者は、おずおずとそう語って、それでも申し訳程度にいろいろな施策をちょこっとしている。自信がないからである。私は歴史を総括し、自信を持って、斉藤幸平を支持する。
本当の合理性、斉藤幸平のいう「新しい合理性」を支持し、それを医療にも適用したい。
△伝統に依拠する共同体は、「経済成長をしない循環型の定常型経済であった」という。
生産力をあげることを、敢えてしなかった。生産力をあげることにより、平等ではなくなり、権力関係を発生するからである。
これは対等の取引をしていても格差を生ずるという「数理が語る格差拡大のメカニズム」によく書かれている。それは市場経済に内在する不平等である。(日経サイエンス2020.9)
だから、経済成長しない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織していた。(とマルクスは認識していたという)
マルクスが目指したコミュニズムは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ。
資本主義を乗り越えるために、マルクスはぼんやりとした形で、より高次のレベルで、定常型経済という共同体の原理を、復興させようとしていたのである。
★ 「脱成長コミュニズム」が到達点だ
これは社会の発展段階での、共同体思想の取り込みだと思う。これは「生産力至上主義」とも、「エコ社会主義」とも全く違ったものに変化した。「脱成長コミュニズム」だった。
斉藤幸平は「大洪水の前に」から、更に成長し、「脱成長コミュニズム」を提唱する。
斉藤幸平は、私の記憶の中に強く残っていたマルクスの言葉「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」を、高らかに宣言してくれた。
そして「マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては、「協同的富」を共同で管理する生産に代わるという。これが<コモン>の思想だという。
斉藤幸平は、マルクスの遺言を引き出した。この地球的危機である「人新世」を私たちが生き延びるために欠かせないのが「脱成長コミュニズム」だと。
☆ 人新世の資本論
「人新世」という地球の危機、気候危機の時代は放っておけば、起用理由が絶滅した時
代のような、大変動が起きるだろうという。それが「人新世」という時代区分をクレッツェルが提唱した。
そしてその時代を乗り越える為には、「何をなすべきか」。
この危機を乗り越えるには、資本主義を止めなければならない。だから資本主義に替わる社会システムを生み出さなければならない。それが「脱成長コミュニズム」であるというのだ。
そしていろいろな道を検討する。
加速主義
エコ近代主義と緑の経済成長
バスターの加速主義的なコミュニズム
素朴政治
政治主義と左派ポピュリズム
これらは政治・政策によって実現される「政治的」プロジェクトのために、「生産の領域における変革の視点」、つまり「階級闘争の視点」が消えてしまう。
斉藤幸平はさらに続けて言う。それどころか、ストライキのような「古くさい」階級闘争やデモや座り込みのような「過激な」直接行動は、選挙戦におけるイメージダウンになるという理由によって、政治主義によって排除されていく。
だが、香港でもパリでも世界の各地でも、人民の素朴な発想によって、政治的指導者の思惑を超えて、実行されてしまう。私たちが若い時にしたように、香港でバリケードを作り、火炎瓶を作り、大学に籠城した。
そして、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要性を説く。
そうだ。社会的運動を作る必要があるのだ。それを作ろう。
その一例が、「気候市民議会」、イギリスの環境運動「絶滅への叛逆」、フランスの「黄色いベスト運動」など。
社会運動が、民主主義を刷新し、国家の力を利用できることを、証明した。
☆アンドレ・ゴルツの「開放的技術」である
「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。ちなみに、閉鎖的技術とは、人々を分断し、利用者を奴隷化し、生産物ならびにサービスの供給を独占する技術を指す。(医療でも同じ)
閉鎖的技術の代表格は原子力発電である。医療もそれに準ずる。
閉鎖的技術は、民主主義的な管理にはなじまず、中央集権的なトップダウン型の政治を求める。特定の技術は、特定の政治形態と結びついている。気候工学も閉鎖的技術である。
まず必要なのは「開放的技術」である。そして「潤沢さ」が危険である。「潤沢さ」を資本主義的な潤沢さから、生活そのものを変え、その中に新しい「潤沢さ」を見出すことが必要である。脱成長と潤沢さのペアを見つけよう。
日本人にとっては、理解しやすいであろう。それは「武士は食わねど高楊枝」の世界を
どれだけ日本以外の人たちに理解してもらえるだろうか。英語には、「こころゆたか」という言葉はない。我々青医連の仲間たちは、昔、「清く、貧しく、美しく」生きる医師を目指した時期があった。昔の赤ひげ医者であるが。
いくらランボルギーニという高級車に乗っても、いくら博士や大臣になっても、トランプ大統領のように、アメリカの上層の20%の中の1%の中の1%の中の1%の中の1%の中の
4人の一人であり、かつ大統領になっても、こころゆたかであろうか。
☆ 欠乏を生んでいるのは資本主義である
本源的蓄積が欠乏を生み出す。本源的蓄積とは、イギリスで行なわれた「囲い込み(運
動)」のことを言う。共同管理されていた農地から農民を締め出したことである。なぜしたかというと、利潤の高い羊の放牧にするためだった。
マルクスいう「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的に作った「希少性」を増大させることを指す。つまり、資本主義は、その発端から現在に到るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。
だから格差社会のメカニズムが解明したように、対等な関係の取引を繰り返していても、格差社会が生じてしまうのである。それが資本主義である。
☆ 「コモン」とは何か
イギリスでは、入会地のような共有地は、「コモンズ」と呼ばれていた。人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこ、どんぐりなどを採取して生活していた。
資本主義によりこの「コモンズ」は解体された。人々は生活している土地を奪われ、共有地に入れなくなり、生活手段を奪われて、多くは都市に流れた。
しかし、資本主義とは、人々があらゆるものを自由に市場で売買できる社会である。
人々は労働力を売ることによって貨幣を獲得し、市場で生活手段を買うことになった。これで商品経済は発展し、資本主義は舞い上がった。
☆ コモンはまだまだある
河川もコモンである。河川は飲み水や、魚を提供し、さらに無償のエネルギー源だった。それが化石燃料に変わった。そして排他的独占が可能になった。
土地と水がコモンだという。私はそこに空気と太陽光も加えたい。
本源的蓄積が始まる前は、コモンは潤沢であった。誰でも、無償で、決まりを守れば必要に応じて利用できるものであった。
☆ ローダデールのパラドックス
「私財の増大は、公富の減少によって生じる」という逆説である。
アダム・スミスは、私富(私財)の合計が国富としたが、それに対する批判であった。
19世紀初頭の経済学者ローダデールは、本当の豊かさは公富の増大にかかっているという。国富が増えても、国民は豊かにはならないという。
☆ マルクスは、これを発展させて「価値」と「使用価値」の対立とした
富とは使用価値のことであり、空気や水や土地などが持つ、人々の欲求を満たす性質である。それに対して財産は、貨幣で測られる。それは商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済でしか存在しない。
使用価値は「価値」を実現するための手段になり、経済活動の目的であったはずだったのが、「価値」を増やすために犠牲にされた。これをマルクスは「価値」と「使用価値」の対立とした。
コモンズの解体による人工的な「希少性」の創造が、「本源的蓄積」の真髄であるという。
☆ まとめ
コモンズとは、万人にとっての「使用価値」である。
コモンズに「希少性」を生み出すことによって、商品「価値」をつけたのだ。
資本は、気候ショックも、コロナショックも、希少性によって金儲けをする。もう抗生物質は、利益が少なく、製薬企業の撤退が始まっている。そして儲かるワクチン製造へ転換した。今が「希少性」による価値の増大で、大儲けのチャンスである。
使用価値を犠牲にした希少性の増大が私富を増やす。これが資本主義の不合理さなのである。
☆ 現代の労働者は、奴隷と同じである
意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も同じなのである。資本主義のもとでは、替わりはいくらでもある。先進国では、その為に移民を受け入れている。日本でも、研修生という名目で受け入れている。
労働者は、首になって仕事が見つからなければ、究極的には飢え死にしてしまう。この不安定さをマルクスは「絶対的貧困」と呼んだ。世界銀行はこの定義を、一日一人1.9ドル以下で生活する人とした。世界で7億人(10%)の人がこれに当たるという。
〇負債という権力
負債を背負うことで、人々は従順な労働者として、資本主義の「将棋で言う盤上の」駒として、働くことを強制される。
それは第一に、住宅ローンであり、第二に、奨学金ローンである。第三に、ちょこちょこ借りることができるカードローンである。
☆ コモンを取り戻すのがコミュニズムだ
マルクスによれば、斉藤幸平は続ける、コミュニズムとは、否定の否定である。一度目は、資本によるコモンの解体であり、二度目はコモンの再建である。コモンの再建により、「ラディカルな潤沢さ」を回復することを目指す。
資本主義を乗り越えて「ラディカルな潤沢さ」を21世紀に実現するのがコモンなのだ。
☆電力もコモンであるべきだという
なぜなら、現代人は電力なしには生きてはいけない。水や空気と同じように、電気なしには生きていけない。水や空気と同じように、電力も「人権」として保障されなくてはいけない。そして、市場に任せずに、任せたら貨幣を持たない人には与えられないから、国有にもしてはいけない。国有だと、閉鎖的技術になるためだから。
電力をコモンとして市民が管理することが求められる。市民の手による「<市民>営化」と呼ぼうという。
☆コモンの“市民”営化
ここには太陽光も風力も、水や空気も、排他的(私的)所有と馴染まない。
再生可能なエネルギーは、開放的技術だという。そしてどこでも作れることにより、希少性がなくなる。それは資本主義にとっては、利潤を生みだせなくなる。
だから、再生可能エネルギーの普及には、“市民”営化が必要になる。
私は医師として、医療もコモンにすべきと思う。医療を開放的技術にし、排他的所有から引き離さなければならない。原始的社会では、医療は人々の中にあった。今は、高度化し、閉鎖的技術となり、「金の切れ目は、命の切れ目」と言われるほどになってしまった。
医療もコモンにできる。私は、それを心掛け、医師を貫いてきた。医療の知識を開放し、医師でなくても家族なら医療行為はできるから、それを広めてきたつもりである。
☆ 生産手段を「コモン」に
それが労働者協同組合である。ここは省略する。
そして斉藤幸平は、教育や医療、インターネット、シェアリング・エコノミーなどをコモンにして市民の手に取り戻そうという。
ここにきてやっと医療が登場した。ここにおいて全く私の考えと一致した。
☆ ワクチンも医療も市民の手で管理しよう。
☆ ラディカルな潤沢さが増えるほど、商品化された領域が減り、GDPは減少する。それ
が脱成長である。
私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働き過ぎた。
もう働かなくていい。脱成長のコミュニズムで、ラディカルな潤沢さを得て、生きていこう。
☆ そこで自由が問題になる。自由にはいくつかあると、私は学生時代に教えられた。現代
にあるのは、資本主義的自由、つまり個人的自由しかない。
マルクスの掲げる自由は、物質的欲望から自由になることであり、集団的で、文化的な活動の領域に、人間的自由の本質があるという。
☆斉藤幸平はいう。自然科学が教えてくれないことと。
私は、以前から医学は自然科学ではなく、社会科学であるというシゲリスト、ルネ・デュボス、白木博次の意見を支持してきた。今はさらに自然科学も、社会的に左右されるから、昔のような自然科学と社会科学という対置はできないのではないかと思う。
「人新世とは何か」でボヌイユは、人文社会科学と自然科学とが分断され、統合を支持する人たちはネオヒポクラテス派と言われ、世界の隅に追いやられたという。まさに私はその一人でした。
また 私は、「人間は体(肉体)とこころを持つ社会的存在である」と提唱してきた。自然界には、蟻や蜂などの社会を営む生き物がいる。人間は、特に社会が無いと人間ではない。
それは、昔、狼などの動物に育てられた人は、人間社会には戻れなかった。人間の姿をした狼である。この存在を否定する意見もあるが、言葉をしゃべれる年齢で猿にさらわれた人が人間界に引き戻されて生きていたという事実がある。略
◎コロナ禍というパンデミックからの出口はどこか
もちろんコロナによるパンデミックは、資本主義が生んだものである。
新型コロナは、いろいろなことを教えてくれた。それが資本主義の終焉の兆候であり、気候変動の原因であることを。
ここでコロナによるパンデミックによって、かき乱された世界の出口が見えてきた。
☆私がたどった出口への道
(1)ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大の「そろそろ左派は経済を語ろう」亜紀書房
(2)「ナオミ・クラインとアルンダティ・ロイ対談」世界2020.9.
(3)「ジェネレーション・レフト宣言」斉藤幸平、世界2020.11.
(4)「コロナと創造的破壊」広瀬純、週刊金曜日2020.9.18.
(5)「人新生の資本論」斉藤幸平、集英社新書
(6)「未来への大分岐」斉藤幸平編、集英社新書
(7)「自由と平等のサピエンス史」三宅芳夫、世界2021.2
(8)「未開と野蛮の民主主義」酒井隆史、世界2020.10
◎ そして私は出口を見つけることができた
私は、20歳代のマルクス主義から、挫折して医療の世界に埋没していた。私にとって「資本論」は理論構築のための教科書であった。その中で到達したのは、自然の体の働きに応じて生きることが大切だということを学んだ。社会が病気を作るのである。
だから現代社会は病気の人が多い。社会を変えれば、かかる病気が異なる。残念ながら社会主義体制下のソ連邦や中国、キューバなどの疾病統計を入手していないので、詳細は言えないが、マルクスの目指した「脱成長コミュニズム」を実現できれば、誰もがその人の持つ寿命をまっとうできると思う。人は誰でも死ぬ。雌雄がある生物には必ず寿命がある。
人は死を恐れ、それを宗教にすがった。マルクスは宗教をアヘンと言った。
私は、宗教に対して、「心療内科」を提唱する。心療内科も到達点は、こころの安寧である。そしてブッダのラディカル・ブッディズムを勧める。ブッダは死を語る時に、「死後の世界などは生きて帰った人がいないから判らない」と説いたという。また奇跡も、信じれば救われるとも言わず、ブッダ崇拝も禁じた。だからラディカル・ブッディズムは宗教とは認められていない。自己修養の教えである。
そしてここに来て私が待っていた若者が出てきた。斉藤幸平だ。
おまけに、30歳代以下の若者と70歳以上のラディカルな人との共闘を呼び掛けてくれた。
社会の3.5%に入ると思う人々よ、立ち上がれ。と呼び掛ける。
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「人新世の資本論」(斉藤幸平)を読んで感じたことと、半分は抄録です。まぜこぜになりましたが、私の気持ちです。次に「脱成長のコミュニズム」を載せます。2020年9月に斉藤幸平の本を知ってから、私の考えがまとまってきました。また二十代の昔に戻った気持ちです。ジグザクデモの名目上の指揮者になり、その後随分長くマークされました。私には怖いものはありません。今の若い人たちは、すぐ「怖いとか、恐ろしい」とか言いますが、私には何ということのない、想定内のことばかりです。誰かが言っていたことですが、「武士は、家の敷居をまたいで一歩外へ出たら、七人の敵に会う」ということをいつも考えて歩いています。安心、安全な社会は、自分の自由を売り渡して得ていると、あるアメリカ人が日本を評して書いていました。私の学生時代に慶応の文学部の教授(名前がどうしても出てきませんが)が言うには、自由や民主主義にはいくつもあると。資本家にとっての自由とは、搾取し掠奪する自由なのです。学生運動時代から遠ざかっていましたが、また私を元気にしてくれる時代が出てきました。
人新世の資本論を読んで思うこと
☆ この書は「大洪水の前に」の後に書かれた啓蒙書ないしは啓発書のようです。
これはマルクスの有名な言葉の引用からで「どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのであるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである」。
だから「大洪水がやってくる前に、『私たちはすべてを変えなくてはならない』」という。
☆ 人新世の資本論の「はじめに」は、「SDGs(持続可能な開発目標)は「大衆のアヘン」である!」で始まります。
かってマルクスは、資本主義のつらい現実が引き起こす苦悩をやわらげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、という。
人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」と名付けました。
そして気候危機は、既に始まっています。「100年に一度」と呼ばれる異常気象が毎年、世界各地で起きています。もうすぐそこに「急激で不可逆な変化が起きて、以前の状態に戻れなくなる地点」が迫っています。
☆ グローバル・サウスとグローバル・ノース
グローバル・サウスとは、グローバル化によって被害を受ける領域およびその住民を指す。
現代では新興国の抬頭と先進国への移民増大による格差社会の進行によって、先進国内での貧困の増大も激しくなり、地理的位置と関係が無くなりました。マルクスの言う万国のプロレタリアートではないだろうか。
しかし、現代では、資本家と労働者という分類ではおさまらなくなり(ジジェクの「パンデミック」参照)、あえてこのような言葉で表現しています。言い換えれば世界のレベルでの「富裕層」と「貧困層」ではないでしょうか。先進国の貧困層をグローバルサウスに含めています。
グローバル・ノース(先進国を中心に世界の富裕層)における大量生産、大量消費型の社会を「帝国的生活様式」と呼ぶ。それはグローバル・サウスからの資源やエネルギーの収奪によって成り立っているのです。
日本もそこに住む我々も、グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化を、つまり資本主義の収奪を前提として、生活しているのです。それが見えなくなってしまっています。
先進国に次いで、発展したのは韓国、台湾、香港、シンガポール、そして中国と言われた時代がありました。今はブリックス諸国(BRICS)、つまりブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカという人口の多い国で、発展している国々です。
それで分類が難しくなり、グローバル・ノースとグローバル・サウスという呼び方が始まったと思います。当初は世界の南北問題が、格差社会の進行で、世界の富裕層と貧困層のことを指すようになったのです。
☆ 労働者だけでなく、地球環境も搾取と収奪の対象になっています。
その為の気候変動なのです。しかし、それも限界に来ています。もう世界には安価な労働力も安価な自然も消滅しつつあります。
資本主義が経済成長を優先する限り、気候変動を止められないとグレタ・トゥーンベリは訴えました。しかし、資本は成長を止められません。だから資本主義を止めるしかなくなっています。
☆ マルクスは環境危機を予言していたと斉藤幸平はいう。
資本主義は自らの矛盾を他へ転嫁し、見えなくしてしまう。だが、その転嫁によって、
更に矛盾が深まって泥沼化していくことが必然的に起きるであろうと。しかし、資本による転嫁は最終的に破綻する。
〇そして斉藤幸平は、三種類の転嫁を述べるが、それは
(1)技術的転嫁――生態系のかく乱
マルクスは農業による土壌疲弊を扱った
(2)空間的転嫁――外部化と生態学的帝国主義
この点もマルクスは土壌疲弊の問題として扱っている
(3)時間的転嫁――「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」
マルクスは森林の過剰伐採を扱うが、現代では気候変動である
そして資本主義より先に、地球がなくなってしまう
☆ 新型コロナは、その矛盾を拡大し、見えるようにしてくれたのです。
「大洪水」は今まさに「すぐそばに」せまってきているというのです。今、自分たちの「帝国的生活様式」を見直さないといけないという現実に直面しています。
だから「大分岐」なのだ。今まさに我々は選択を迫られています。
ローザ・ルクセンブルク(ドイツの女性社会主義者で暗殺された)の「社会主義か、野蛮か」というスローガンが生き生きと再登場してきました。野蛮を防ぐにはどうしたらよいだろうか。
☆グリーン・ニューディールはどうか
これは気候ケインズ主義だと斉藤幸平は切り捨てます。グリーン・ニューディールの最後の砦がSDGs(持続可能な開発目標)なのです。これは「緑の経済成長」を掲げています。それは可能なのか。
気候ケインズ主義というのは、気候におけるケインズ経済学のやり方で、ケインズはマルクス経済学の台頭に対抗して出てきた資本主義擁護の経済学です。しかし、歴史の中でもう当てはまらなくなり、学問的価値は落ちています。
ニューディール政策とは、アメリカが1930年代に経済停滞した時に、経済に政府が介入し、公共投資を行ない、社会保障も行なったルーズベルト大統領の政府がとった政策で、それでアメリカ経済が復活したのです。
〇「地球の限界」を、2009年ロックストロームが提唱
地球システムには、自然本来の回復力が備わっている。だが、一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、急激かつ不可逆的な、破壊的変化を起こす可能性がある。これが「臨界点」であると。
この考え方は正しいと思う。それはまさに「人間そのもの」にそういう現象があるからです。例をあげれば、過重労働です。人間の体に負荷をかけると、その臨界点を超えるともう元に戻れなくなります。その結末は、うつ病による自殺、心筋梗塞、脳卒中、癌の発病です。
ロックストロームは、その臨界点を9項目にして測定しようとしました。(気候変動、生物多様性の損失、窒素・リン循環、土地利用の変化、海洋酸性化、淡水消費量の増大、オゾン層の破壊、待機エアロゾルの負荷、化学物質からの汚染の9項目)
しかし、ロックストロームの測定では、気候変動や生物多様性などの4項目は既に「地球の限界」を超えてしまっているというのです。人類は、自然を支配しようとした結果、地球環境を取り返しのつかないような形に変えてしまっています。2019年ロックストロームは「緑の経済成長という現実逃避」という自己批判をしました。経済成長か、気温1.5℃未満の上昇か、どちらか一方しか選択できないことが判ったのです。ロックストロームの結論は、経済成長をあきらめることでした。
〇ティム・ジャクソンの「成長なき繁栄」では、先進国ではエネルギーの消費の効率化は進むのですが、後続して進むブリックス諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)などは逆に悪化しています。産業革命以来の資本主義の歴史をみれば、経済成長は化石燃料を大量に使用することによって成し遂げられたのです。経済成長と化石燃料は、不可分、つまり切り離せない程密接に関連しています。
〇この事態を、「効率化すれば、つまり技術進歩が、環境負荷を増やす」という「ジェヴォンズのパラドックス」(1865年)が説明してくれます。
〇市場の力では(ケインズ主義経済学では)気候変動は止められません。
世界の富裕層が「裕福な生活様式」によって二酸化炭素を排出しています。世界の富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出しているというデータも出されています。世界の下から50%の人たちは全体の10%しか排出していないのです。
☆しかも、先進国に住む人たちのほとんどは世界のトップ20%に入っており、日本人のほとんどは世界のトップ10%に入っていると考えられます。つまり、私たち自身が、自分の享受している「帝国的生活様式」を抜本的に変えていかなければ、気候危機にたちむかうことなど不可能なのです。
☆ 電気自動車の本当のコスト
それは原子力発電の本当のコストと同じなのです。原料の生産から、廃棄処分までを計算
すると高額になります。決して安くはありません。電気自動車に使われている原材料を、採掘から加工の費用まで計算するとそうなります。
☆ 人新世の生態学的帝国主義
「緑の経済成長」を目指す先進国の取り組みは、社会的・自然的費用を周辺部へと転化しているのに過ぎません。鉱物、鉱石、化石燃料、バイオマスを含めた資源の総消費量です。 膨大な天然資源を消費しています。それは殆ど循環せずに消費されています。資源総消費量を大幅に減らさなければならないのです。
(バイオマスとは、自然の動植物を使った有機的資源のことです。わかりやすく言えば、家庭の生ごみなどを肥料にしたりすることなど)
電気自動車の生産は、その原料の採掘にも石油燃料が使われ、二酸化炭素が排出されます。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えます。
国際エネルギー機構によれば、2040年までに電気自動車は現在の200万台から2億8000万台にまで伸びるといいます。ところがそれによって削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのです。
〇バイオマス・エネルギーの導入によって二酸化炭素排出量をゼロに実現しつつ、大気中の二酸化炭素を回収して地中や海洋に貯留する技術もそう簡単には実現はしません。
バイオマスには膨大な農地が必要になるし、二酸化炭素を貯留するにも大量の水が必要になります。これはマルクスの言う「転嫁」にしか過ぎません。
結局は、グリーン・ニューディールが本当に目指すべきは、経済のスケールダウンとスローダウンなのです。
☆ 気候変動への適応とは、気候変動はもう止められないということだといいます。
そこで出された答えは一つで、成長を止めること。つまり脱成長ということが選択肢になるのです。今まで、ずっと経済成長が善であると語られてきました。経済成長によって貧困者を救えると。しかし、どうもそうではなさそうです。
☆ケイト・ラワースの「ドーナツ経済」であり、彼女の言う「地球の生態学的限界のなかで、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全体の繁栄が可能になるのか」という問いであったのです。その結論は、持続可能性の為には、現在の世代は、一定の限界内で生活しなくてはなりません。
1日1.25ドル以下で暮らす14億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%
を再分配すれば足りるというのです。
☆ 経済成長と幸福度は相関するのか
いくら経済成長しても、その成果を一部の人々が独占し、再分配を行なわないなら、大勢の人々は潜在能力を実現できず、不幸になっていきます。
☆ そこで未来の選択肢となるのは
国家に依存しないで、民主主義的な相互扶助の実践を、人々が自発的に展開し、気候危機に取り組む可能性があるのです。それが公正で、持続可能な未来社会のはずです。
アメリカのサンダースもイギリス労働党のコービンも、グリーン・ニューディールでした。
☆左派ポピュリズムを支えたのは、主にZ世代と呼ばれる1990年以降生まれの世代(30歳以下)です。ついでミレニアル世代(アラフォー以下)だといいます。彼らを、斉藤幸平はジェネレーション・レフトと呼ぶ。
ちょうど私たち70歳以上の世代が若い時には、多くが左派であったように。私が大学生協の常任理事を務めていた当時、慶応の学生の3割しか左派がいなかったのですが、東大や多くの国立大では9割が社会党、共産党支持でした。慶応の学費闘争の後に、一時的には慶応でも左派が増え全学自治会を制しました。それがジェネレーションでしょうか。
☆ 斉藤幸平は「取り残される日本の政治」という。失われた30年ともいう。
しかし、私はそうは思わない。私たちが闘ってきた時代は、若者たちが政治を動かした。
慶応で学費反対闘争が起こり、バリケード、直接民主制、自主講座という闘争形態を生み出した。学費値上げは阻止できなかったが、学費は物価連動制となり、医学部の授業料が、私学の中では最も安い大学となったのです。それが1964年のことでした。
今判ったことですが、同じ1964年に、アメリカではカリフォルニア大学バークレー校でマリオ・サヴィオを中心とした学生たちが抗議の運動を展開していたことです。
アメリカでベトナム反戦運動が起きた頃に、日本でもベトナム反戦運動が起き、べ兵連が登場しました。私は、また20~30年後に、アメリカでも日本でも、若者たちが立ち上がる時が来ることを予想し、期待してきました。今若者たちは、社会への不満を、暴走したり、いろいろな問題行動をして叛逆しています。そのエネルギーが政治的になると、また若者たちの運動が起きます。
☆ 今まさにその時が来ました。そして「未来への大分岐」の中で、マイケル・ハートは「(イギリス)労働党のなかでもコービンを支持している核の存在なのですが、・・・。活動の中心になっているのは、三十五歳以下の若者と七十歳以上の高齢者で、・・・。」
「若い支持者たちは、サンダース支持者にとても似ています。」
日本もその時代が来たのです。斉藤さんが呼びかけたのです。若い人か抬頭してくることを私は待っていました。私たちの世代は二十歳代を先頭に闘ったのですし、マルクスだって26歳で新聞に評論を書いたのです。若い世代が新しい社会を築くのです。
斉藤さんは「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ」という。
☆ コモンという考え方
コモンとは、社会的に共有され、管理されるべきと見のことを指す。
水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として自分たちで民主的に管理する
ことを目指す。「社会的共通資本」とも似ているが、
コモンは専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。
最初は医療もコモンに入ると思っていましたが、歴史を見たら、農業が始まる以前には医療は怪我の治療位であり、農業の開始、産業革命、資本主義社会の進行と共に、病気が増えて医療が必要になったのです。もっと穏やかな社会にすれば、医療の必要性は大きく減ります。私のしている育児法は子どもの病気を減らします。大人の病気も減らせます。だから水や空気とは違い、医療はコモンとは言えないのです。
そして最終的には、このコモンの領域を拡大していくことで、資本主義の超克を目指す。
マルクスにとっても、「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段をコモンとして、共同管理・運営する社会のことだった、と明快に解いてくれる。
コミュニズムとは、知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまったコモンを意識的に再建する試みにほかならない。
マルクスはコモンを再建された社会を「アソシエーション」と呼んでいたという。
労働者たちの自発的な相互扶助<アソシエーション>が<コモン>を実現するという。
グレーバーは資本主義の下でアソシエーションを実現する方法が、福祉国家だった。
しかし、それを解体したのが新自由主義だったから、歴史は元に戻らず、次の社会を構築するしかない。それは何か。
☆ そこでマルクスの復権、再構築を目指す
〇リービッヒの「掠奪農業」批判にマルクスは感銘を受けた。
人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、地球上で、生きている。この自然との循環的な相互作用を、マルクスは「人間と自然との物質代謝」と呼んだ。
人間はほかの動物と違う関係を結ぶのが「労働」だというが、私は異議を唱える。昆虫には、人間と同じように労働している種族がいるのではないか。しかし、結論には納得する。
「人間の労働は」、「人間と自然の物質代謝」を制御・媒介する、人間に特徴的な活動である。
マルクスは、資本主義は物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告した。
マルクスはリービッヒの「掠奪農業」批判を超え、過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅などのエコロジカルなテーマを資本主義の矛盾として扱っていたという。
〇ドイツ農学者のフラースは、古代文明の崩壊過程を描く。フラースは過剰な森林伐採のせいで、地域の気候の変化、そして農業が困難になったせいだという。これに注目していたという。資本が環境を変え、そして環境が破壊されて、文明が崩壊するという。
☆資本主義の下では、持続的な成長は不可能であるからと、マルクスはその後の世界をエコ社会主義と描いたという。
〇ヨーロッパ中心主義はどうか。
サイードのマルクス批判に応え、それを晩年に脱却したという。
(エドワード・サイードは、パレスチナ生まれのアメリカ人でアラブ系学者の代表。ヨーロッパ文化批判の「オリエンタリズム」著者)
〇当時のロシアには、ミールと呼ばれる農耕共同体が残存していた。それをナロードニキたちが広げようとしていた。(ナロードニキは、19世紀末期のロシアの社会主義者たちで「人民の中へ、ヴ・ナロード」を提唱し農村へ入った)
ロシアにおける土地の共同所有
アジアにおける村落共同体
古代ゲルマン民族の共同体である「マルク協同体」
共同体の中に平等主義に出会う
イスラエルのキブツ、日本のヤマギシズムや幾つかの試みの中にも共同体思想はあった。
☆ 持続性と社会的平等
農耕共同体の再評価
社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。私にとって、資本主義は医療、つまり人間の精神、身体を破壊する。自然の治癒力を破壊する。
◎ 「新しい合理性」― 大地の持続可能な管理のために
<これは資本主義の下での合理性ではなく、「新しい合理性」である。医療でも、政府厚生労働省や多くの医学者は「科学的根拠」という言葉の下に、ちっとも根拠のないことを科学的と称してきた。今回のコロナ対策の大半は、そうである。スウェーデン政府の衛生政策担当者は、おずおずとそう語って、それでも申し訳程度にいろいろな施策をちょこっとしている。自信がないからである。私は歴史を総括し、自信を持って、斉藤幸平を支持する。
本当の合理性、斉藤幸平のいう「新しい合理性」を支持し、それを医療にも適用したい。
△伝統に依拠する共同体は、「経済成長をしない循環型の定常型経済であった」という。
生産力をあげることを、敢えてしなかった。生産力をあげることにより、平等ではなくなり、権力関係を発生するからである。
これは対等の取引をしていても格差を生ずるという「数理が語る格差拡大のメカニズム」によく書かれている。それは市場経済に内在する不平等である。(日経サイエンス2020.9)
だから、経済成長しない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝を組織していた。(とマルクスは認識していたという)
マルクスが目指したコミュニズムは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ。
資本主義を乗り越えるために、マルクスはぼんやりとした形で、より高次のレベルで、定常型経済という共同体の原理を、復興させようとしていたのである。
★ 「脱成長コミュニズム」が到達点だ
これは社会の発展段階での、共同体思想の取り込みだと思う。これは「生産力至上主義」とも、「エコ社会主義」とも全く違ったものに変化した。「脱成長コミュニズム」だった。
斉藤幸平は「大洪水の前に」から、更に成長し、「脱成長コミュニズム」を提唱する。
斉藤幸平は、私の記憶の中に強く残っていたマルクスの言葉「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」を、高らかに宣言してくれた。
そして「マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては、「協同的富」を共同で管理する生産に代わるという。これが<コモン>の思想だという。
斉藤幸平は、マルクスの遺言を引き出した。この地球的危機である「人新世」を私たちが生き延びるために欠かせないのが「脱成長コミュニズム」だと。
☆ 人新世の資本論
「人新世」という地球の危機、気候危機の時代は放っておけば、起用理由が絶滅した時
代のような、大変動が起きるだろうという。それが「人新世」という時代区分をクレッツェルが提唱した。
そしてその時代を乗り越える為には、「何をなすべきか」。
この危機を乗り越えるには、資本主義を止めなければならない。だから資本主義に替わる社会システムを生み出さなければならない。それが「脱成長コミュニズム」であるというのだ。
そしていろいろな道を検討する。
加速主義
エコ近代主義と緑の経済成長
バスターの加速主義的なコミュニズム
素朴政治
政治主義と左派ポピュリズム
これらは政治・政策によって実現される「政治的」プロジェクトのために、「生産の領域における変革の視点」、つまり「階級闘争の視点」が消えてしまう。
斉藤幸平はさらに続けて言う。それどころか、ストライキのような「古くさい」階級闘争やデモや座り込みのような「過激な」直接行動は、選挙戦におけるイメージダウンになるという理由によって、政治主義によって排除されていく。
だが、香港でもパリでも世界の各地でも、人民の素朴な発想によって、政治的指導者の思惑を超えて、実行されてしまう。私たちが若い時にしたように、香港でバリケードを作り、火炎瓶を作り、大学に籠城した。
そして、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要性を説く。
そうだ。社会的運動を作る必要があるのだ。それを作ろう。
その一例が、「気候市民議会」、イギリスの環境運動「絶滅への叛逆」、フランスの「黄色いベスト運動」など。
社会運動が、民主主義を刷新し、国家の力を利用できることを、証明した。
☆アンドレ・ゴルツの「開放的技術」である
「開放的技術」とは、「コミュニケーション、協業、他者との交流を促進する」技術である。ちなみに、閉鎖的技術とは、人々を分断し、利用者を奴隷化し、生産物ならびにサービスの供給を独占する技術を指す。(医療でも同じ)
閉鎖的技術の代表格は原子力発電である。医療もそれに準ずる。
閉鎖的技術は、民主主義的な管理にはなじまず、中央集権的なトップダウン型の政治を求める。特定の技術は、特定の政治形態と結びついている。気候工学も閉鎖的技術である。
まず必要なのは「開放的技術」である。そして「潤沢さ」が危険である。「潤沢さ」を資本主義的な潤沢さから、生活そのものを変え、その中に新しい「潤沢さ」を見出すことが必要である。脱成長と潤沢さのペアを見つけよう。
日本人にとっては、理解しやすいであろう。それは「武士は食わねど高楊枝」の世界を
どれだけ日本以外の人たちに理解してもらえるだろうか。英語には、「こころゆたか」という言葉はない。我々青医連の仲間たちは、昔、「清く、貧しく、美しく」生きる医師を目指した時期があった。昔の赤ひげ医者であるが。
いくらランボルギーニという高級車に乗っても、いくら博士や大臣になっても、トランプ大統領のように、アメリカの上層の20%の中の1%の中の1%の中の1%の中の1%の中の
4人の一人であり、かつ大統領になっても、こころゆたかであろうか。
☆ 欠乏を生んでいるのは資本主義である
本源的蓄積が欠乏を生み出す。本源的蓄積とは、イギリスで行なわれた「囲い込み(運
動)」のことを言う。共同管理されていた農地から農民を締め出したことである。なぜしたかというと、利潤の高い羊の放牧にするためだった。
マルクスいう「本源的蓄積」とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的に作った「希少性」を増大させることを指す。つまり、資本主義は、その発端から現在に到るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。
だから格差社会のメカニズムが解明したように、対等な関係の取引を繰り返していても、格差社会が生じてしまうのである。それが資本主義である。
☆ 「コモン」とは何か
イギリスでは、入会地のような共有地は、「コモンズ」と呼ばれていた。人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこ、どんぐりなどを採取して生活していた。
資本主義によりこの「コモンズ」は解体された。人々は生活している土地を奪われ、共有地に入れなくなり、生活手段を奪われて、多くは都市に流れた。
しかし、資本主義とは、人々があらゆるものを自由に市場で売買できる社会である。
人々は労働力を売ることによって貨幣を獲得し、市場で生活手段を買うことになった。これで商品経済は発展し、資本主義は舞い上がった。
☆ コモンはまだまだある
河川もコモンである。河川は飲み水や、魚を提供し、さらに無償のエネルギー源だった。それが化石燃料に変わった。そして排他的独占が可能になった。
土地と水がコモンだという。私はそこに空気と太陽光も加えたい。
本源的蓄積が始まる前は、コモンは潤沢であった。誰でも、無償で、決まりを守れば必要に応じて利用できるものであった。
☆ ローダデールのパラドックス
「私財の増大は、公富の減少によって生じる」という逆説である。
アダム・スミスは、私富(私財)の合計が国富としたが、それに対する批判であった。
19世紀初頭の経済学者ローダデールは、本当の豊かさは公富の増大にかかっているという。国富が増えても、国民は豊かにはならないという。
☆ マルクスは、これを発展させて「価値」と「使用価値」の対立とした
富とは使用価値のことであり、空気や水や土地などが持つ、人々の欲求を満たす性質である。それに対して財産は、貨幣で測られる。それは商品の「価値」の合計である。「価値」は市場経済でしか存在しない。
使用価値は「価値」を実現するための手段になり、経済活動の目的であったはずだったのが、「価値」を増やすために犠牲にされた。これをマルクスは「価値」と「使用価値」の対立とした。
コモンズの解体による人工的な「希少性」の創造が、「本源的蓄積」の真髄であるという。
☆ まとめ
コモンズとは、万人にとっての「使用価値」である。
コモンズに「希少性」を生み出すことによって、商品「価値」をつけたのだ。
資本は、気候ショックも、コロナショックも、希少性によって金儲けをする。もう抗生物質は、利益が少なく、製薬企業の撤退が始まっている。そして儲かるワクチン製造へ転換した。今が「希少性」による価値の増大で、大儲けのチャンスである。
使用価値を犠牲にした希少性の増大が私富を増やす。これが資本主義の不合理さなのである。
☆ 現代の労働者は、奴隷と同じである
意志にかかわりなく、暇もなく、延々と働くという点では、労働者も奴隷も同じなのである。資本主義のもとでは、替わりはいくらでもある。先進国では、その為に移民を受け入れている。日本でも、研修生という名目で受け入れている。
労働者は、首になって仕事が見つからなければ、究極的には飢え死にしてしまう。この不安定さをマルクスは「絶対的貧困」と呼んだ。世界銀行はこの定義を、一日一人1.9ドル以下で生活する人とした。世界で7億人(10%)の人がこれに当たるという。
〇負債という権力
負債を背負うことで、人々は従順な労働者として、資本主義の「将棋で言う盤上の」駒として、働くことを強制される。
それは第一に、住宅ローンであり、第二に、奨学金ローンである。第三に、ちょこちょこ借りることができるカードローンである。
☆ コモンを取り戻すのがコミュニズムだ
マルクスによれば、斉藤幸平は続ける、コミュニズムとは、否定の否定である。一度目は、資本によるコモンの解体であり、二度目はコモンの再建である。コモンの再建により、「ラディカルな潤沢さ」を回復することを目指す。
資本主義を乗り越えて「ラディカルな潤沢さ」を21世紀に実現するのがコモンなのだ。
☆電力もコモンであるべきだという
なぜなら、現代人は電力なしには生きてはいけない。水や空気と同じように、電気なしには生きていけない。水や空気と同じように、電力も「人権」として保障されなくてはいけない。そして、市場に任せずに、任せたら貨幣を持たない人には与えられないから、国有にもしてはいけない。国有だと、閉鎖的技術になるためだから。
電力をコモンとして市民が管理することが求められる。市民の手による「<市民>営化」と呼ぼうという。
☆コモンの“市民”営化
ここには太陽光も風力も、水や空気も、排他的(私的)所有と馴染まない。
再生可能なエネルギーは、開放的技術だという。そしてどこでも作れることにより、希少性がなくなる。それは資本主義にとっては、利潤を生みだせなくなる。
だから、再生可能エネルギーの普及には、“市民”営化が必要になる。
私は医師として、医療もコモンにすべきと思う。医療を開放的技術にし、排他的所有から引き離さなければならない。原始的社会では、医療は人々の中にあった。今は、高度化し、閉鎖的技術となり、「金の切れ目は、命の切れ目」と言われるほどになってしまった。
医療もコモンにできる。私は、それを心掛け、医師を貫いてきた。医療の知識を開放し、医師でなくても家族なら医療行為はできるから、それを広めてきたつもりである。
☆ 生産手段を「コモン」に
それが労働者協同組合である。ここは省略する。
そして斉藤幸平は、教育や医療、インターネット、シェアリング・エコノミーなどをコモンにして市民の手に取り戻そうという。
ここにきてやっと医療が登場した。ここにおいて全く私の考えと一致した。
☆ ワクチンも医療も市民の手で管理しよう。
☆ ラディカルな潤沢さが増えるほど、商品化された領域が減り、GDPは減少する。それ
が脱成長である。
私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働き過ぎた。
もう働かなくていい。脱成長のコミュニズムで、ラディカルな潤沢さを得て、生きていこう。
☆ そこで自由が問題になる。自由にはいくつかあると、私は学生時代に教えられた。現代
にあるのは、資本主義的自由、つまり個人的自由しかない。
マルクスの掲げる自由は、物質的欲望から自由になることであり、集団的で、文化的な活動の領域に、人間的自由の本質があるという。
☆斉藤幸平はいう。自然科学が教えてくれないことと。
私は、以前から医学は自然科学ではなく、社会科学であるというシゲリスト、ルネ・デュボス、白木博次の意見を支持してきた。今はさらに自然科学も、社会的に左右されるから、昔のような自然科学と社会科学という対置はできないのではないかと思う。
「人新世とは何か」でボヌイユは、人文社会科学と自然科学とが分断され、統合を支持する人たちはネオヒポクラテス派と言われ、世界の隅に追いやられたという。まさに私はその一人でした。
また 私は、「人間は体(肉体)とこころを持つ社会的存在である」と提唱してきた。自然界には、蟻や蜂などの社会を営む生き物がいる。人間は、特に社会が無いと人間ではない。
それは、昔、狼などの動物に育てられた人は、人間社会には戻れなかった。人間の姿をした狼である。この存在を否定する意見もあるが、言葉をしゃべれる年齢で猿にさらわれた人が人間界に引き戻されて生きていたという事実がある。略
◎コロナ禍というパンデミックからの出口はどこか
もちろんコロナによるパンデミックは、資本主義が生んだものである。
新型コロナは、いろいろなことを教えてくれた。それが資本主義の終焉の兆候であり、気候変動の原因であることを。
ここでコロナによるパンデミックによって、かき乱された世界の出口が見えてきた。
☆私がたどった出口への道
(1)ブレイディみかこ、松尾匡、北田暁大の「そろそろ左派は経済を語ろう」亜紀書房
(2)「ナオミ・クラインとアルンダティ・ロイ対談」世界2020.9.
(3)「ジェネレーション・レフト宣言」斉藤幸平、世界2020.11.
(4)「コロナと創造的破壊」広瀬純、週刊金曜日2020.9.18.
(5)「人新生の資本論」斉藤幸平、集英社新書
(6)「未来への大分岐」斉藤幸平編、集英社新書
(7)「自由と平等のサピエンス史」三宅芳夫、世界2021.2
(8)「未開と野蛮の民主主義」酒井隆史、世界2020.10
◎ そして私は出口を見つけることができた
私は、20歳代のマルクス主義から、挫折して医療の世界に埋没していた。私にとって「資本論」は理論構築のための教科書であった。その中で到達したのは、自然の体の働きに応じて生きることが大切だということを学んだ。社会が病気を作るのである。
だから現代社会は病気の人が多い。社会を変えれば、かかる病気が異なる。残念ながら社会主義体制下のソ連邦や中国、キューバなどの疾病統計を入手していないので、詳細は言えないが、マルクスの目指した「脱成長コミュニズム」を実現できれば、誰もがその人の持つ寿命をまっとうできると思う。人は誰でも死ぬ。雌雄がある生物には必ず寿命がある。
人は死を恐れ、それを宗教にすがった。マルクスは宗教をアヘンと言った。
私は、宗教に対して、「心療内科」を提唱する。心療内科も到達点は、こころの安寧である。そしてブッダのラディカル・ブッディズムを勧める。ブッダは死を語る時に、「死後の世界などは生きて帰った人がいないから判らない」と説いたという。また奇跡も、信じれば救われるとも言わず、ブッダ崇拝も禁じた。だからラディカル・ブッディズムは宗教とは認められていない。自己修養の教えである。
そしてここに来て私が待っていた若者が出てきた。斉藤幸平だ。
おまけに、30歳代以下の若者と70歳以上のラディカルな人との共闘を呼び掛けてくれた。
社会の3.5%に入ると思う人々よ、立ち上がれ。と呼び掛ける。
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