涼風鈴子「それでは、‘‘こんばんは1776H特急三崎口行き,,のコーナーです。今夜は、1057編成で運転されているそーです。ネタの為とはいえ馬鹿ですね。では今日明日もあなたにアタシに幸運があらんことを…」
涼風鈴子「みっなさ~ん、おはよーざいますぅー、今日は、何曜日?そー月よーびー。という事は?ブル~マ~ンデ~!!皆さん、憂鬱ですか?憂鬱ですか?憂鬱ですかー?ああそうだよ、という声が聞こえてきますが、改めまして、涼風鈴子でありやす。9月7日月曜日でございます。浅い眠りの後のこの番組は、頼むから止めてくれという声がたーっぷり聞こえてきてますが、このノリというか雰囲気がモーニングオンマンデーのネタになり、アタシの台詞と相なっております。やる方も相当つらいですが…。まーなんていうのかしらね、逆行してるよね、この番組。爽やかに物静かななんて3の次も良い所だもんね。ガーッ騒いでなんぼのワンパターンインチキDJショーだよね。こんなん許される筈は無いのに、番組は続くよどこまでも、ってな感じで、やっています。インチキと言えば、今朝のこの晴れた空。何かやーい日曜日終わりーと皮肉な笑顔を浮かべている感じがしますね。そー思えるのは、台本描いたアドバイザーイドワイザーさんとこのブログの管理人だけだと思います。そんな話はどうでも良いというカンペに従いまして、ここで実態の無い、今日の動き今週の動きに入ります。9月7日の今日は…」
昨今、空回りというかなんというか、人間関係のトラブルが頻発し減なりとしている中、日曜深夜夜話を書いてみる。
以前からずっと書いて来ている通り、かれこれ20数年頭悩まされて生きてきたので、ああまたか、程度に受け止めている中、自分ってこの世の中でやって行けないんじゃないか、という自信喪失感も一方で生んでいる。
自己抑制力の低さもあるが、感情のコントロールをうまく出来ず、自己主張がうまく出来ない事、があるようだ。
なかなか言いたい伝えたい事は伝わらないもの、という考えがあるのと、不快感を表ざたに、所謂「キレる」というのを人前でやるのは、大人げ無いと思う口なので、好きではない。だから押さえ込むだけ押さえ込む様にはしても、やはり限界は生じる。また一方で、相手の要求に応えようとする中で、私自身の今の人間性を否定され、改革改善が求められると途端に動けなくなるし、時に、所謂「キレる」という状況にまで陥る。
社会に出るといやがおうでもでも、求められるのが「対人力」と言われるもので、「世渡り上手にならねば、生き抜く事は出来ない」と言っても過言ではない。
しかしいきなり人間、簡単に「世渡り上手」になれる筈もない、という事に気づいたのは昨今である。幼い頃から育ってきた環境やら歩んだ道の総集により、それが確立される様だ。
これまで何度か、「おまえは駄目だ」的な私という「人間性」を否定された事があった。それを指摘されると、「怒」という感情を覚えざるを得ないが、人はいとも簡単に、人間性を否定出来る動物の様だ。私自身の素行の悪さを棚に挙げて何を言うか、という声が聞こえて来るが、それにしても、私という人間性の否定がこれまで多い。それが人間関係を悪くする火だねになることは少なくない。
昨年2008年に、全員共犯者ゲーム、という話をし、負けてしまった事で恨みつらみを書いた事は記憶に新しいが、この話の裏にも、「私」という人間が受け入れられないという事と人間性の否定があったのは言うまでもない。
人間性がずっと否定され続けると、やがて「自信喪失」につながる事がどれだけの理解が行っているか、と私は思う。またこれと呼応するかの様に、色んな事がうまくいかず、果ては、
「何をしてもやってもうまくはいかないだろう」
という論理が展開され、物凄く臆病になっていく事もまた理解はいっていない様だ。
人間関係がうまくいかなくなることの行き着く先は、こんな所であるが、これら恨みつらみを書き綴ても当然、総てが変わる訳でも無いが、文字にすることで、理解が行き渡ればと思う。
人が人を理解し、受け入れようという姿勢よりも、人は人を否定し、蹴散らそうとする姿ばかりが目につく中で、自分自身の足元がぬかるみ不安定で何だか要らぬ苦労を背負わなくてはならない予感もそこにはある。
以前からずっと書いて来ている通り、かれこれ20数年頭悩まされて生きてきたので、ああまたか、程度に受け止めている中、自分ってこの世の中でやって行けないんじゃないか、という自信喪失感も一方で生んでいる。
自己抑制力の低さもあるが、感情のコントロールをうまく出来ず、自己主張がうまく出来ない事、があるようだ。
なかなか言いたい伝えたい事は伝わらないもの、という考えがあるのと、不快感を表ざたに、所謂「キレる」というのを人前でやるのは、大人げ無いと思う口なので、好きではない。だから押さえ込むだけ押さえ込む様にはしても、やはり限界は生じる。また一方で、相手の要求に応えようとする中で、私自身の今の人間性を否定され、改革改善が求められると途端に動けなくなるし、時に、所謂「キレる」という状況にまで陥る。
社会に出るといやがおうでもでも、求められるのが「対人力」と言われるもので、「世渡り上手にならねば、生き抜く事は出来ない」と言っても過言ではない。
しかしいきなり人間、簡単に「世渡り上手」になれる筈もない、という事に気づいたのは昨今である。幼い頃から育ってきた環境やら歩んだ道の総集により、それが確立される様だ。
これまで何度か、「おまえは駄目だ」的な私という「人間性」を否定された事があった。それを指摘されると、「怒」という感情を覚えざるを得ないが、人はいとも簡単に、人間性を否定出来る動物の様だ。私自身の素行の悪さを棚に挙げて何を言うか、という声が聞こえて来るが、それにしても、私という人間性の否定がこれまで多い。それが人間関係を悪くする火だねになることは少なくない。
昨年2008年に、全員共犯者ゲーム、という話をし、負けてしまった事で恨みつらみを書いた事は記憶に新しいが、この話の裏にも、「私」という人間が受け入れられないという事と人間性の否定があったのは言うまでもない。
人間性がずっと否定され続けると、やがて「自信喪失」につながる事がどれだけの理解が行っているか、と私は思う。またこれと呼応するかの様に、色んな事がうまくいかず、果ては、
「何をしてもやってもうまくはいかないだろう」
という論理が展開され、物凄く臆病になっていく事もまた理解はいっていない様だ。
人間関係がうまくいかなくなることの行き着く先は、こんな所であるが、これら恨みつらみを書き綴ても当然、総てが変わる訳でも無いが、文字にすることで、理解が行き渡ればと思う。
人が人を理解し、受け入れようという姿勢よりも、人は人を否定し、蹴散らそうとする姿ばかりが目につく中で、自分自身の足元がぬかるみ不安定で何だか要らぬ苦労を背負わなくてはならない予感もそこにはある。