↑篠原美也子1997年のアルバム“Vivien”より『風の背中』を聴いてみたくなったのは、陽気の所為だろうか?
昨年投稿したこの記事で書いた、
――「解らないままいつも勝ち負けは決まって行く。駆け抜けた筈のゴール。歓声は聞こえない。追い越して行く人たち、なんて遠い所にいるのだろう。泣かないで今はまだきっと道の途中」(篠原美也子『風の背中』 1997年 より引用)1997年に負け敗れた事がある。中味は言えないが、そこからしばらく、今から10年くらい前までは、負けてもまあいいかと思えたし、追い越されても良いや、あの前を行く数多の背中に追いつけやしない。それでも良いじゃない何とかなっているし・・・と思い信じ続け、気がつけば道なかばにとらわれて動けなくなっている今がある。数多の背中と共に行き、追い付け追い越せと言うがっついた順位争いみたいなのにはついては行けず、かと言って、このペースて行くことへの自信を喪失した。もう8年前になるが、あのつまづいた日。まだまだ間に合い、これから――なんて心のどこかで思っていたし、先へ行こうとする力はあったように思えるが。そんなつまづきから立ち直りは見せたものの歴史は繰り返すので、あの頃に戻った。歳月だけが経過し、もう追い付けぬ数多の背中は見えず追い付けずで、情けねえな自分――と肩を落とす。リタイヤ出来るものやらしたいとさえ思うのは8年前も変わらなかったかも知れないが、それ以上に強く今は思う。――
と言う所は変わらぬ想いであるけれど、春が来る度、一体どれくらいの背中に抜かれ負け行っただろう。もう取り戻せぬ何かは数知れずだが、1997年の個人的な人生への敗北が、どうしょうもない物を私に突き刺し、傷みと共に血が流れ続けているので、この曲の詞の意図する所に辿り着くことは永遠に出来ない。それでも、この曲『風の背中』は我が心の名曲として此の手にある。
篠原美也子『灰色の世代』1994年を聴いてみる。動機は何となくと↓
↑リアルタイム解析によるものであるが、去年の今頃、この投稿記事で聴いてみるこの曲。
投稿記事中にある、
――この曲の歌詞によく出てくる言葉は「淋しさ」。以前話だがこのアルバムの歌詞カードの中にある「あとがきにかえて」と言うアーティストからの言葉に「置き去りにされたような、狭間の世代。相変わらず淋しくて途方に暮れながら、みっともなくて、かっこ悪くて、でも私の中で今1番いとおしい色である灰色に、このアルバムを捧げます」とある。『灰色の世代』はそんな話の中から生まれた様にも見受けられるが、それは「淋しさ」と言う3文字がキーワードとなるようだ。「淋しさ」。それは、別に友達が居ないとか言うのとは違うものだと私は思うのだが、きっと、「伝えたいものが相手に伝わらない」と言うものでもある様に思えた。『灰色の世代』の歌詞にある「喜びを悲しみをいとしさを恋しさを伝えたくてもどかしくて、だから寄り添うもの」と言う1行からそんな風に思えた。そして、その「淋しさ」には、「悲しみ」も伴うようだ。『灰色の世代』に出会った1994年の頃の私もそんなだったのかも知れない。今も大して変わりはしないけれど、この曲がどこかで心に響いたのはきっとそんなものもあったように今は思う。誰にも知れぬ伝わらぬ曖昧で言葉にならないものは、淋しくて悲しいものを背負ったその先の日々が今私に来ているようだ。――
と言う事を想って書いたのだが、改めて読み直すとその言葉に嘘はないなと思う。
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