篠原美也子の1994年のナンバー、『話して』を、1994年のアルバム『いとおしいグレイ』から、聴いてみる。
恋人でなくても、友人でなくても良い。何でも話せる人、あなたには、きっといる、あるいは、これからきっと出来る――そう思う。
篠原美也子のセカンドアルバム『満たされた月』(1993年)より、『月の河』を聴いてみる。
星と言う恋しい誰かと自分自身を、偉大な月の光で、照らされ、時間と言う河を、共に行く、と言う人生は、あなた、と言う誰かに、用意されている。
篠原美也子のファーストアルバム『海になりたい青』(1993年)より、“Passing”を聴いてみる。
全てが、通りすぎていく度に、残るものが、哀しみ・悲しみ、切なさ、だとしたら、言葉もない。
篠原美也子のファーストアルバム『海になりたい青』(1993年)より、『夢を見ていた』を、聴いてみる。
あれは、夢であったよ――恋にしても何にしても、そう、割りきれる人生なんて、ありはしない。
篠原美也子の4thシングル、『ありふれたグレイ』を、聴いてみる。
誰もに受け入れらる色になれなくて、途方にくれ、自分自身に何の色もみえなくなって、曖昧に悩む心は、素敵であっても、苦行である。
1994年の篠原美也子のシングル『ジレンマ』より、『花束』、を聴いてみる。
好きだよ、一緒に生きよう、これからずっと――と、言って、花束を、恋する人にあげられる夢物語は、あなた、と言う誰かにだけ、ある。
篠原美也子のサードシングル『ジレンマ』(1994年)を、聴いてみる。
この当時聴いた、ああ、良いなこの歌、と言う想いは、今尚、続いているので、こうして、ピックアップする動機になる。
篠原美也子『言わなきゃ』を、シングル『誰の様でもなく』(1993年)から、聴いてみる。
その繋がり、歩きだした、恋の行く末の可否の答は、歌ではなく、人の心の中にあり。
篠原美也子のセカンドシングル、『誰の様でもなく“Single Version”』(1993年)を、聴いてみる。
普通になれない、そう思えた時、そこにある惹かれる世界、誰の様でもなく。
誰にも受け入れられなければ、何の意味もなく、悲しみ・哀しみと寂しさ・淋しさが、蓄積されるだけだけれど。
篠原美也子の2003年のセルフカバーアルバム“SPIRAL”より、『名前の無い週末』を聴いてみる。
16年経過の一曲でも、もはや、その痕跡さえ、名前が無い。それでも、良い。それでこその私の宝曲として、そこにある。