2019年12年31日、令和元年大晦日12月31日が終わって、まだ2日しか経過してないのに、遠い日の様に、感じるのが不思議である。クリスマス2019年からだって、ようやく8日が経過しただけだと言うのに。
12月31日23時59分59秒にジャンプして、1月1日0時0分0秒に着地して、喜ぶ気持ちが、こんな時だけ、良く判る。
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新春令和2年、2020年始まり時の『急行特急TH1月1日あるいは12月25日に、目覚めて直ぐに、
――昨日までが終わって、今日からは、何もかもが思い通り、全てが刷新されている――
そうなっている日は、いつも来ない。
新春令和2年、2020年始まり時の『急行特急TH140文字呟き程度の投稿』は、三が日中日に、連続して、10投稿の暴投かつ爆投し、息が切れた今である。
先程も書いたが、そんなに言うほど、あっと驚く、目を引くような話なんて、そうそう書けない。そして、何でも良いから自由に、と言っても、書けない、思い付かない、記事ネタである。
この暴投かつ爆投、昨日の1月1日にやったら、本当に366日(閏年だから)の2020年、このブログ『急行特急は行く…』に、この『140文字呟き程度の投稿』を、今年2020年毎日366日(閏年だから)、暴投かつ爆投するのだろうか?いや、それはないな。その心は、日々そんなに、活字にするほど、沢山の事を感じ得ない、単調な日々だから。
すっかり昼夜逆転の長い長い週末続き期間。今日からは、長い長い日曜日になったな、と思う。長い長い週末は、終わったんだ、甘ったれないで呉れ、と言う、思い出したくない過去のワンシーンが、思い出されて、不甲斐なく、何も出来ない自分自身への苛立ちが、募るばかり。まあ、そんなもんさ。
365日の目標建ては、第1日目にあり――なんて言うが、言葉と想いだけが立派、で、初詣の神社仏閣の参拝同様に、第2日目が来た瞬間には、すっかり、昨日の計は、忘れ去られるばかり、である。
そんな忘れ去られた、あまたの想いと忘れ去られる参拝した神社仏閣に、投じた念の象徴は、ただそこに光り、手を伸ばしても、決して手が届かない、幾万幾億とも幾兆とも知れない星の輝き、なんだろう。一応は、天にあり、光り輝いて、綺麗で立派は立派であるが、空しく虚しい。
こんな時分で、時間が出来たのだから、ガンガン記事投稿出来る筈だ、と、毎度、長期連休が来る度、思うのだが、やって来てみれば、そんな思惑通りにはいかず、記事投稿ではなく、SNSでの活動に余念がなくなり、このブログと言うSNSは、ほったらかし、と言う、ていたらく、なのは、言うまでもない。
他方で、そんなに言うほど、一朝一夕、一時一瞬に、感じる何かは、こうして、活字にするほど、多くはなく、また、活字にするのが、躊躇われる事も多く、一体、お前は、何者なんだ?と言う疑問符がついて、終わる本末。
思惑と行動が一致するのは、奇跡、会心の一撃、とは、巧い表現である。
昨今、1月1日が来て、神社仏閣への溢れる多数の参拝者を見ていて、思い、感じるのは、
――年1回しか来ず、日頃はその存在を見向きもせず、忘れさっている参拝者に、神仏は、疲弊し、哀れだな――
と言うこと。かく言う私も、そんな風に、年1回だけの参拝信者で、祈祷だけ欲張り、と言う不届き者。祈祷しても、我が欲張りな願いなど、叶う筈もない、と思うと、参拝の足が止まってしまう。
聖夜に元日、願い、想う、は、今日・明日への期待、明日への幸福。それを祈ってみても、私と言う自分に、それは叶わず、あなたが今日・明日に期待を持てますように、あなたの今日・明日が幸せになりますように、と願うと、成就率が高いのは、何でなんでしょう?そして、その成就の瞬間を見たとき、素直に、あなたの成就を喜べない、のは、なぜなんでしょうか?損した、悔しい、なんであの人が幸せで私は不幸なの?となるのは、なんでなんでしょう。教えて、神様状態。