読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

悼む人 天童荒太 オール読物連載<9月号最終回>

2008-08-24 16:12:27 | 読んだ
8月号を読んだとき、ああそろそろ終わりだなあ、と思っていたら、今月9月号で最終回であった。

最初読み始めたときは『なんだかよくわからない世界』だなあ、と思っていたのであった。
そして、最終回を読み終えても、その『よくわからない世界』ではあった。
しかし、著者が言わんとすることについては、なんとなく感じ取れたように思えるのである。

さて、この「悼む人」の概要である。
<坂筑静人>は、新聞などの死亡記事をみて、その死んだ人を悼むために日本各地を放浪している。
「悼む」ということがどういうことなのか本人もよく説明できないのであるが、方法としては、死んだ人を知っている人にあって、死んだ人がどのように生きていたか、具体的には誰かに愛されていたか、誰かに感謝されていたか、といったその人が生きていたときの善行のようなものを聞き出し、その人が死んだ場所で「あなたはこういう人たちに愛され感謝されていましたよ」というようなことで呼びかけるのである。

悼むということは多くの人に理解されず、変人扱い或いは新興宗教ではないかと疑われ時には警察などに通報され、インターネットでも話題になっている。

週刊誌記者の蒔野は静人を取材するが理解できない、それどころか「悪」ではないかと思ったりし、静人の実家を訪ねる。

そこでは静人の母:巡子が末期がんの治療を行っていた。
この巡子の末期がんとの闘いも読み応えがある。(蒔野との交流もある)

しかし、なんといっても静人と一緒に歩く奈義倖世との絡みが一番読み応えがある。
倖世は夫を殺し刑務所から出てきたばかりである。
倖世は殺した夫:甲水朔也の霊のようなものにとりつかれている。
朔也は倖世の行動を冷たくののしる。

静人は倖世を通じて朔也と会話をする。
この場面が一番の山場であった。
「悼む」ということがどのような意味を持っているのか、ということについて、静人と朔也(もしかしたら倖世)は議論をするこの場面は、「生きる」ということについて問い苦しんでいる。
それは人間の本質のようなものを探しているともいえる。

最終回ではいわゆる「ハッピーエンド」とはならなかったが、この物語らしい終わり方であった。

科学が進歩し、それにつれて「人が生きる」ということが、どちらかといえば科学的なこと<心臓が動いているとか、脳が生きているとか>のようになってきたが、生きるということはそれだけでなく『精神的なもの』があるのではないか、ということを著者は探したかったのではないだろうか。

近年、私もよく「生きる」ということを考える。
それは、例えば頭ははっきりしているが体が衰え寝たきりになっている人や、身体は丈夫なのだが認知症になっている人、つまり介護を要する人たちが増えてきているからである。

介護を受ける人たちは「生きている」には違いないが、それはどういう生きているなんだろうか、ということを考えたりするのである。
そして介護をするために次世代の人は自分の人生を変えざるを得ない、ということはどいうことなんだろうか。

「死」ということはそれほどまでに恐れなければならないのか、或いは忌み嫌わなければならないことなのか。
「死」というのは最後なのか、それとも誰かの出発なのか。
そんなことも考えてしまう。

この「悼む人」は、死んだ人に感謝する、そういうことで死んだ人が生きていたことを何かに刻むのである。
そのことについてもう一度考えてみたい。

連載が終了したので、単行本となりいつかは文庫本になるだろう。
その文庫本になったとき、私は何を考えているのか、それも楽しみである。

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コメント (2)
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