帯には
バカでもエロでもええじゃないか。
鬼才、
最後の自伝的小説
とある。
著者の団鬼六といえば「SM小説」の大家という称号を持っている。
そのSM小説だけを読めば、団鬼六という人はその名前から連想されるように鬼のような容赦のないサディスト、と思う。
しかし、他の小説、特に自伝的小説などを読むと、性的には割とまっとうで、考えていることもまっとうのようである。
そのまっとうな人が非常にまっとうでないSM小説を書くから、その小説が面白いなのだと思う。
これで、本当のサディストだったりマゾヒストだったりする人がそのあたりの小説を書いても、自分だけにしか通用しないものを書いてしまうのではないかと思う。
しかも、そのSMにいわゆるオタク的というかプロ的というか専門的なものをあまり描かずに、ただ読者を楽しませるというところがいい。
さて、この小説は、団鬼六が自分の小説の発表の場のSM雑誌を刊行するというところから動き始める。
しかし、このSMキングは創刊からしばらく売れ行きが悪い。
そこで、テコ入れを行うのだが、そのテコ入れが面白い。
テコいれが功を奏して、SMキングは売れ始める。
団鬼六を中心とした鬼プロのメンバーと、そこを取り巻く有名人。
SMは変態に区分される、陽のあたるところではおおっぴらにできないが、できないがゆえに、ちょっと暗くなると、多くの人が動き出す。
そういう場面で団鬼六は、常識的に考える。
しかし、SMの巨匠というところから見栄みたいなもので破滅的に振る舞う。
それがうまく回転していくとおおきな勢いになる。
それがピークに達したころが、いわば引き時。
やっていることは、SMという変態的なことであり、登場する人たちはとんでもない人が多い、「異常な世界」で舞台であるのだが、そこで起きる事件というか事象は、普遍的なことである。
だから、この小説は面白い。
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バカでもエロでもええじゃないか。
鬼才、
最後の自伝的小説
とある。
著者の団鬼六といえば「SM小説」の大家という称号を持っている。
そのSM小説だけを読めば、団鬼六という人はその名前から連想されるように鬼のような容赦のないサディスト、と思う。
しかし、他の小説、特に自伝的小説などを読むと、性的には割とまっとうで、考えていることもまっとうのようである。
そのまっとうな人が非常にまっとうでないSM小説を書くから、その小説が面白いなのだと思う。
これで、本当のサディストだったりマゾヒストだったりする人がそのあたりの小説を書いても、自分だけにしか通用しないものを書いてしまうのではないかと思う。
しかも、そのSMにいわゆるオタク的というかプロ的というか専門的なものをあまり描かずに、ただ読者を楽しませるというところがいい。
さて、この小説は、団鬼六が自分の小説の発表の場のSM雑誌を刊行するというところから動き始める。
しかし、このSMキングは創刊からしばらく売れ行きが悪い。
そこで、テコ入れを行うのだが、そのテコ入れが面白い。
テコいれが功を奏して、SMキングは売れ始める。
団鬼六を中心とした鬼プロのメンバーと、そこを取り巻く有名人。
SMは変態に区分される、陽のあたるところではおおっぴらにできないが、できないがゆえに、ちょっと暗くなると、多くの人が動き出す。
そういう場面で団鬼六は、常識的に考える。
しかし、SMの巨匠というところから見栄みたいなもので破滅的に振る舞う。
それがうまく回転していくとおおきな勢いになる。
それがピークに達したころが、いわば引き時。
やっていることは、SMという変態的なことであり、登場する人たちはとんでもない人が多い、「異常な世界」で舞台であるのだが、そこで起きる事件というか事象は、普遍的なことである。
だから、この小説は面白い。
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