読もう読もうと思って昨年9月に購入していたのだが、なんだかアレで読まずにいたのだ。
何故読もうと思ったかというと、映画を見るためである。
原作のある映画(邦画)を見るときは、原作を読んでいないとなんだかイヤなのである。
何故なのか?はわからない。
もしかしたら、あの角川映画「人間の証明」のテレビコマーシャルで流れた
『読んでから見るか、見てから読むか』
の影響かもしれない。
あの時は「読みながら見る、見ながら読むか」ではだめなのか、なんて思ってたけれど。
あのあとからは、原作を読んだ映画を中心に見ていた。
というようなことから、BSで映画を見る前に読もうと思っていた。
が、間に合わず、映画を先に見て原作を後から、つまり「見てから読む」になってしまった。
映画と原作というのは、原作の世界をどう映像化するか、ということと、原作との違いがどう生きているのか、ということである。
私は、原作のとおりの映画であろうと、原作と違う展開の映画であろうと構わないので、その違いというのも見どころになるわけである。
そんなわけで、今回はその楽しみがなくて映画を観たのである。
そして、原作である。
映画を観てから時間をおいて読んだせいか、原作と映画では大きな違いがなかったように思えた。
一部、原作に登場する人物が映画では省かれていたくらいかもしれない。
葉室麟の小説は、藤沢周平の描く世界に似ている、と最初に読んだ時から思っていたが、本作は「羽根藩」シリーズの第一作で、藤沢周平の「海坂藩」シリーズとの何らかの関係性を感じる。
葉室麟と藤沢周平の描く世界が似ているというのは、どちらも人の持つ「普遍性」を中心に描いているからだと思う。
本書の主人公:豊後羽根藩の元郡奉行戸田秋谷は、7年前に前藩主の側室との密通の罪で家譜編纂と10年後の切腹を命じられている。
10年後には確実に死ななければならないのである。しかも自らの手で。
罪は冤罪である。
檀野庄三郎は、親友と城内で刃傷沙汰を起こしたが、特別の計らいにより切腹を逃れ、秋谷の下に家譜編纂の補助と秋谷の監視に派遣された。
庄三郎は、非常に悲惨で残酷な運命の中にいる秋谷とその妻そして秋谷の娘と息子との生活する中で、秋谷の清廉さに触れ、村人たちとの交流により、人間として成長していく。
物語は、秋谷の寡婦編纂における謎解き、村人と羽根藩との確執などを経ながら、最後に向かう。
さて、秋谷は切腹するのか?
切腹の意味はなんなのか?
読み終わると、大きな澄んでいる空気に包まれ、生きるということのありがたさを知る。
死にたいと思えるのは、もしかして幸福で贅沢なことなのかもしれない、本作の設定を知るとそう思う。
映画とは別の感動がある。
その姿を見た、