近頃はキンドル(kindle)で読書だったが、なんだか味気ない感じがしてきて、久しぶりに文庫本でも読もうかと思い手に取った本である。
実は2017(H29)年5月に購入してそのままにしていたものである。
この3年間は、趣味の読書というより「読まねばならぬ」ものがいっぱいで、とてもとても本を読む気になれなかった。
といいながら、少しづつ読んではいたのだが、感想という感想を持たないものだった。
さて、戦国幻想曲である。
主人公は戦国期に生きた「渡辺勘兵衛」である。
こいつが一風変わったやつで、こんなやつとは深くかかわりたくない、のが私としての感想である。
イヤ、わかるのよ、こいつの信念は。
いいのその信念で。
でもね、他人のそれも割と頑固な信念は、付き合うとつらいのよ。
で、読み進めると、渡辺勘兵衛よりも池波正太郎の「すごさ」のほうが感じられるのであった。
先ずは「空白」である。
本は文字がびっしりと詰まっているのもいいと思う。
でもね、近頃は「読まねばならぬもの」読んでいるといったけど、それはねえ「漢字」がびっしりと改行もなく連なっていたり、その中に聞いたこともないようなカタカナが入ってたり、或いは英語が縦書きで入ってたりするんだ。
わかる、わかるんだけど、読むほうはつらいよね。
それがこの小説はいい加減の空白がある。
そして、もう一つは「ひらがな」なんだよね。
近頃の読物は、これでもかというくらいに「漢字」多用なんだよね。
『私(筆者)はこれだけ漢字を知っているんだぜ!』
というくらい、漢字がおおいのだ。これは多分パソコンなどで執筆しているからだと思うのだが・・・
そういえば、以前仕事で若い人たちの報告書なんかを読むと
『お前、絶対この漢字の意味しらないよな』
と、言いたいくらいのものを書いていたりしたが、あれはパソコンだよね。
池波正太郎の小説は割とひらがなが多い。
たとえば、この物語の出だし
『きくまいとしても、耳へ入ってしまう。
夜着をあたまからかぶり、両耳を押さえてみても、聞こえるものは聞こえる。』
となっているが、この文章を普通に書けば
『聞くまいとしても、耳へ入ってしまう。
夜着を頭から被り、両耳を押さえてみても、聞こえるものは聞こえる』
となる。(と思う)
「聞く」とか「頭」は普通に漢字で書くでしょう。
ひらがなの効果は、私の思うには「読む」ことにあると思う。
漢字は「見る」ので、つい流しがちになるが、ひらがなは読む。
そしてもう一つは、この物語、いや池波正太郎の小説、エッセイ全般を支えている「人生観」を感じることである。
なにかを発表することは「人生観」を発表することではないだろうか?
そう思うのである。
池波正太郎の「おとな」の人生観である。
人はスパッとは割り切れない、複雑なものなのだ。
近頃は「キャラ」とかいうけれど、キャラを裏切るのが人ではないのか。
そんなことを考えてしまった。
本書の主人公の渡辺勘兵衛も「いまわのきわ」(今際の際)の父から
『汝、女という生きものにひきずられるな、よいか。女、とは・・・可愛ゆうて、おそろしい生きものよ。男の立身も出生も、みな喰いつぶしてしまう生きものよ』
といわれ、守ろうとするが、男の弱さに引きずられてしまう。
あれあれ勘兵衛どうした?!
と思ったりするのだ。
久々の池波正太郎、ひさびさの文庫本。
よかった、よかった。
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