小説新潮に2011年7月から2012年6月まで連載し本となった。
今回、小説新潮の連載を一気に読み返したのである。
「評伝」である。
対象は「団鬼六」である。
団鬼六といえば「SM作家」、というのがまあ普通のというか一般的な「呼称」である。
私も、その昔SM雑誌で読んだことがあって、その後、角川文庫で「花と蛇」が文庫化されたとき購入。といっても全8巻中4巻までであるが・・・
その後、気になるといえば気になってはいたのだが、なかなか読む機会というものがなかった。
それが『幻冬舎文庫』が創刊されて次々と団鬼六の本が簡単に手に入るようになった。
しかも、SMものではなく将棋や評伝が刊行されていたので多く読むことができた。
その時に思ったのは
「団鬼六という作家はなぜSMを書いていたのだろう?」
ということだった。
それくらい、団鬼六の書いたものは面白かった。
そうなのだ「面白い」というのが団鬼六の特徴だと思ったのだ。そしてもうひとつ「自由自在」であった。
したがって、今回、大崎善生が団鬼六の評伝を連載すると知って、ものすごく楽しみにしていた。
それなのに、いわゆる「スランプ」の陥って、途中から読めなくなった。
今回、最初から読み直してみて、最初に思った「団鬼六という作家はなぜSMを書いていたのだろう?」という疑問が解けたような気がする。
ところで、著者の大崎善生だが。デビュー作「聖の青春」でファンになった作家である。
「聖の青春」は将棋の村山聖9段の生涯を描いたもので、著者の繊細さと優しさが感じられた。その後「将棋の子」と続いて期待していたが、将棋の世界から小説に変わってしまった。アジアンタム・ブルーなどの小説は、さらに著者の繊細さを感じさせられた。
そういう、いわゆる「私のお気に入り」が書かれる側と書く側になったのだから、私にとって面白くないわけがない。
さて。団鬼六は
「世の中なんて甘いもんや。真面目にコツコツ働いてどうする。」
という信念を持つ父親の影響からか、その後も難しいことに意味を見出そうとすることに反発し、軽さや面白さを追求する。
それにしても浮き沈み(それも非常に振幅幅の大きい)が激しい人生を鬼六は送っている。
いわゆる『無頼派』なのだが、まあ、近くにいる人は大変だったろうなあ、と思わせる人生である。
離れてみている人にとっては「面白い」とおもうけれど、絶対近くにはいきたくない人である。
その浮き沈みの具合と、なぜ浮き沈みを繰り返すのか、ということを、大崎は丁寧にそして深く浮かび上がらせる。
そして、その答えが「赦しの鬼」という題名になった。
「痛快!」という感想も持った。つまり『こういう人になりたい』という気持ちにもなるのだ。
ぜひ、読んでもらいたい。
私は、団鬼六の文庫をまた読んでみようか(『花と蛇』のようなSMも含めて)と思っている。
この本を読んで驚いたものの一つに、団鬼六のSM小説はSM雑誌の発売禁止の対象となっていない、ということであった。「SM小説の大家」としてはそれが残念だったらしい。
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
今回、小説新潮の連載を一気に読み返したのである。
「評伝」である。
対象は「団鬼六」である。
団鬼六といえば「SM作家」、というのがまあ普通のというか一般的な「呼称」である。
私も、その昔SM雑誌で読んだことがあって、その後、角川文庫で「花と蛇」が文庫化されたとき購入。といっても全8巻中4巻までであるが・・・
その後、気になるといえば気になってはいたのだが、なかなか読む機会というものがなかった。
それが『幻冬舎文庫』が創刊されて次々と団鬼六の本が簡単に手に入るようになった。
しかも、SMものではなく将棋や評伝が刊行されていたので多く読むことができた。
その時に思ったのは
「団鬼六という作家はなぜSMを書いていたのだろう?」
ということだった。
それくらい、団鬼六の書いたものは面白かった。
そうなのだ「面白い」というのが団鬼六の特徴だと思ったのだ。そしてもうひとつ「自由自在」であった。
したがって、今回、大崎善生が団鬼六の評伝を連載すると知って、ものすごく楽しみにしていた。
それなのに、いわゆる「スランプ」の陥って、途中から読めなくなった。
今回、最初から読み直してみて、最初に思った「団鬼六という作家はなぜSMを書いていたのだろう?」という疑問が解けたような気がする。
ところで、著者の大崎善生だが。デビュー作「聖の青春」でファンになった作家である。
「聖の青春」は将棋の村山聖9段の生涯を描いたもので、著者の繊細さと優しさが感じられた。その後「将棋の子」と続いて期待していたが、将棋の世界から小説に変わってしまった。アジアンタム・ブルーなどの小説は、さらに著者の繊細さを感じさせられた。
そういう、いわゆる「私のお気に入り」が書かれる側と書く側になったのだから、私にとって面白くないわけがない。
さて。団鬼六は
「世の中なんて甘いもんや。真面目にコツコツ働いてどうする。」
という信念を持つ父親の影響からか、その後も難しいことに意味を見出そうとすることに反発し、軽さや面白さを追求する。
それにしても浮き沈み(それも非常に振幅幅の大きい)が激しい人生を鬼六は送っている。
いわゆる『無頼派』なのだが、まあ、近くにいる人は大変だったろうなあ、と思わせる人生である。
離れてみている人にとっては「面白い」とおもうけれど、絶対近くにはいきたくない人である。
その浮き沈みの具合と、なぜ浮き沈みを繰り返すのか、ということを、大崎は丁寧にそして深く浮かび上がらせる。
そして、その答えが「赦しの鬼」という題名になった。
「痛快!」という感想も持った。つまり『こういう人になりたい』という気持ちにもなるのだ。
ぜひ、読んでもらいたい。
私は、団鬼六の文庫をまた読んでみようか(『花と蛇』のようなSMも含めて)と思っている。
この本を読んで驚いたものの一つに、団鬼六のSM小説はSM雑誌の発売禁止の対象となっていない、ということであった。「SM小説の大家」としてはそれが残念だったらしい。
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