小説新潮3月号は「エロス早春賦」である。
小説新潮が考えているエロスと私の妄想するエロスとは大きな隔たりがあるので、「エロス」という特集をするのはやめてほしいのである。(たいしたことないのに本屋さんで買うときにそこだけ目立つのである)
さて、その特集号の巻頭の小説が「みんな半分ずつ」である。
題名の横に
「身勝手な男に女はいつも振り回されるけれども、鍵を握るのは女・・・恋愛小説の名手、待望の最新作」
とある。
弓枝は夫・康人とインテリアデザイン事務所を6年前に立ち上げた。
それ以前から二人は何でも半分ずつにして生活をしてきた。
この「なんでも」ということがミソである。
同棲をして結婚しても、共通の財布に入れるお金は勿論、洗濯・掃除・料理・後片付けも全部「半分ずつ」である。
それが先週の金曜日康人から「別れたい」と切り出され、そして康人は出て行った。事務所の女の子・美希と暮らすのである。
月曜日、事務所に行くと、康人の分がそっくりなくなっている。
そして・・・
というお話である。
康人が
「対等って、本当に嫌な言葉だな」
「特に、女の口から出る『対等』ほど、耳障りなものはない」
「君にはわからないかもしれないが、女が対等って言葉を使う時は、すでに優位に立っているって宣言してると同じなんだよ。対等なんて、男を見下げた言葉だ」
と、弓枝に言ったとき、弓枝はショックを受けたはずだが、ショックだけだったのではないかと思う。
しかし、美希から
「先生って、よほど対等が好きなんですね」
といわれたときに、何かが切れたのではないか。
愛し愛されることも対等でなければならない、というのは、どうもイタダケナイ考え方であるが、現代は、そんな考え方がいたるところで出てきているのではないか、なんて、思ったりして。
格差社会というけれど、個性の時代ではなかったのか?
平等とか対等というのは、そしてなんでも半分ずつというのは、実は大きな不満を生む要因なのではないだろうか。
なかなかに面白い短編でありました。
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小説新潮が考えているエロスと私の妄想するエロスとは大きな隔たりがあるので、「エロス」という特集をするのはやめてほしいのである。(たいしたことないのに本屋さんで買うときにそこだけ目立つのである)
さて、その特集号の巻頭の小説が「みんな半分ずつ」である。
題名の横に
「身勝手な男に女はいつも振り回されるけれども、鍵を握るのは女・・・恋愛小説の名手、待望の最新作」
とある。
弓枝は夫・康人とインテリアデザイン事務所を6年前に立ち上げた。
それ以前から二人は何でも半分ずつにして生活をしてきた。
この「なんでも」ということがミソである。
同棲をして結婚しても、共通の財布に入れるお金は勿論、洗濯・掃除・料理・後片付けも全部「半分ずつ」である。
それが先週の金曜日康人から「別れたい」と切り出され、そして康人は出て行った。事務所の女の子・美希と暮らすのである。
月曜日、事務所に行くと、康人の分がそっくりなくなっている。
そして・・・
というお話である。
康人が
「対等って、本当に嫌な言葉だな」
「特に、女の口から出る『対等』ほど、耳障りなものはない」
「君にはわからないかもしれないが、女が対等って言葉を使う時は、すでに優位に立っているって宣言してると同じなんだよ。対等なんて、男を見下げた言葉だ」
と、弓枝に言ったとき、弓枝はショックを受けたはずだが、ショックだけだったのではないかと思う。
しかし、美希から
「先生って、よほど対等が好きなんですね」
といわれたときに、何かが切れたのではないか。
愛し愛されることも対等でなければならない、というのは、どうもイタダケナイ考え方であるが、現代は、そんな考え方がいたるところで出てきているのではないか、なんて、思ったりして。
格差社会というけれど、個性の時代ではなかったのか?
平等とか対等というのは、そしてなんでも半分ずつというのは、実は大きな不満を生む要因なのではないだろうか。
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