南斗屋のブログ

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追剥と考えてるようだけど、違うよ。追落としだ 仮刑律的例 #6流刑

2023年08月03日 | 仮刑律的例
#仮刑律的例 #6流刑
【超訳】
(明治元年十月、松代藩からの伺)
夜間に路上で金を奪おうと考え、往来の者が逃げて転んでしまったことに乗じて、金を出せと脅して6両強をとった者がいます。
追剥であり、死罪でよいでしょうか。
(返答)
本件は追剥ではない。追落とし。
追剥なら死罪だが、追落としだから。大赦あったし、ワンランク落として流刑で処理して。

元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #6流刑
【伺い】
明治元年十月、真田信濃守(松代藩)からの伺い
甲州無宿仙次郎が追剥を致しました。以下がその口書です。今般、天皇御即位による大赦が出され、犯情許しがたい者を除くほかは全て罪一等を減じるように、犯情許しがたい者と思料するときは口書と共に役所にお伺いをするようにとの仰せでした。
本件は、犯情許しがたく死罪とすべきかと思料致しますので、お伺いする次第です。

(仙次郎の口書)
父親芳太郎のもとにおりましたが、生活が苦しく、日々の生活にも難渋しましたので、一昨年(寅年)九月に親には無断で家を出て帳外となりました。姉が甲州無宿春吉の女房で信州善光寺町におりましたので、姉を頼って同町に行き、春吉の子分となって同居致しました。
昨年(卯年)九月に、春吉の承諾のもと、越後に行って、日雇い稼ぎを致しました。その後、春吉が大病したため、今年の二月には善光寺町に戻って参りました。
四月八日夜、春吉方で、春吉の子分である無宿者の清之助とその弟角太郎と酒を飲んでいました。酒を飲んでいるうちに、「和田村の長五郎のところに行って金を借りて来ようぜ」という話しになり、同人方まで行きました。私は木刀を持って行きました。あいにく同人は留守でしたので、道を戻ってきました。
三輪村地内字高土手というところまで来ますと、見知らぬ男一人が通りかかりました。この男を見て、清之助らに「ケンカを仕掛けて金を奪おう」と誘ったのです。清之助はそういうことは辞めようと当初は言っていたのですが、最終的には同意し、皆でその男に声をかけました。その男は逃げましたので、皆で追いかけました。するとその男は転んでしまったので、皆で取り押さえ、「金を持っているならだせ」と脅したのです。男は懐中より金子入りの紙入れを差し出しましたので、それを奪い取りました。
春吉方に戻って紙入れの中を見ますと、6両1分1朱、銭400文が入っていました。これを清之助に1両1分1朱、角太郎には1両2分2朱、春吉に1両2分渡しまして、残りの1両3分2朱400文は私が取りました。
捕まったときには1分100文が手元に残っていましたが、そのほかは酒食遊興に使ってしまいました。
以上、有り体に私のしたことを全て申し上げました。牢舎に入れられてからも調べを受け、「今回の件以外にも追剥その他盗みをしているのであれば、包み隠さず申しのべろ」といわれましたが、本件以外には決してやっておりません。
追剥をしてしまい申し訳のしようもなく、御仕置を仰せ付けられましても毛頭恨みは致しません。

【返答】追剥であれば死罪とすべきだが、本件は追落としとみてよい。よって、死罪から一等減刑して流刑として処すべきである。

【コメント】
・本件は口書(供述調書)が引用されており、様々なことが分かります。
・本件の被告人仙次郎は、甲州(山梨県)の出身です。当時は人別帳のある村から勝手に抜けることは違法であり、この違法な状態を「無宿」といっていました。仙次郎は甲州出身の無宿なので、「甲州無宿仙次郎」と呼ばれています。
・甲州出身の仙次郎が村を抜けて、生活をしていたのが、信州善光寺町です(現長野市元善町)。門前町だけあって栄えており、それに伴い無宿者も流れ込んできています。仙次郎の姉は無宿者の春吉と結婚して、善光寺町に住んでおり、仙次郎も姉夫婦を頼ってこの町にやってきたのでした。
・仙次郎は「春吉の子分として」同居しており、また本件犯行に加わった清之助らも春吉の子分とありますから、徒党を組んでヤクザのようになっていたと思われます。
・仲間と夜に酒を飲んでいるのに、唐突に「和田村の長五郎のところに行って金を借りて来ようぜ」という話しになることもおかしいですし、その際に木刀を持って行くのも変です。押しかけ強盗をしにいくのだろうと見るのが自然です。それをあくまでも「金を借りにいく」と強弁する仙次郎はどっぷりとヤクザの世界にハマっているようです。
・犯行場所は三輪村(長野市三輪)です。善光寺町からは北国街道で約1.4 km。
上額山 善光寺-三輪(旧北国街道/相ノ木通り/県道399号経由)(1.4 km)

善光寺 to 三輪

善光寺 to 三輪


・本件は、夜間に往路で金を奪おうと考え、往来の者が逃げたが転んでしまったことに乗じて、金を出せと脅して6両強をとったというもので、現代なら強盗罪の共犯、被害者が怪我をしていれば強盗致傷罪の共犯となります。 しかし、江戸時代は追剥と追落としの区別がされており、量刑に大きな差がありました。
・公事方御定書では追剥は獄門、追落は死罪であり、追剥の方がかなりの重罪と考えられていました。両者の区別は衣類の剥ぎ取りをしたものが追剥、懐中物の奪取をしたものは追落と考えられていました(石井良助『盗み・ばくち』)。
・本件の犯行は懐中物の奪い取りであり、衣類の剥ぎ取りは行っていませんから、「追落」です。追剥にはなりません。
・このような考え方から、【返答】では「追剥であれば死罪とすべきだが、本件は追落としとみてよい。よって、死罪から一等減刑して流刑として処すべきである。」としているのです。


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