嘉永6年7月・大原幽学刑事裁判
大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。
嘉永6年7月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、小石川の高松様方へ行き、暇乞い(高松様はご出仕で不在)。昼、湊川に戻る。その後、高松様がおいでになり、邑楽屋でうんとん(うどん)をご馳走になる。昼過ぎ出立。扇橋から行徳まで船。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
江戸訴訟組に帰村許可が出ましたので、五郎兵衛は帰り支度。食いしん坊五郎兵衛は、昼食にうどんを奢られたのが嬉しかったよう。五郎兵衛はうどんのことは、「うんとん」と記しています。
扇橋-常夜灯公園(新大橋通り経由)
#五郎兵衛の日記
嘉永6年7月2日〜28日までお休み。
五郎兵衛は嘉永6年7月2日〜28日まで長沼村に帰村していますので、日記に記事がありません。
#大原幽学刑事裁判
嘉永6年7月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
日の出とともに長沼を出立する。五兵衛殿が、大森(白井市)まで一緒に来てくれた。大森で役所の手続き。御添翰を頂戴し、本日鎌ケ谷の鹿嶋屋泊。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)五郎兵衛らは一時許可を得て帰村していたので、裁判のために江戸に行かなければなりません。五郎兵衛の住む長沼村(成田市)から江戸までは一泊二日。大森宿(印西市)では江戸に出る手続き。江戸への出府も何回かになり、これももう慣れたものです。宿泊は鎌ケ谷の鹿嶋屋。(前回の出府と同様)。鹿嶋屋には渡辺崋山も宿泊したことがあります。
「文政8年(1825年)に蘭学者で画家の渡辺崋山が木下道を旅した際には、この鹿島屋に立ち寄っています。崋山がこの時の旅のことを記した『四州真景図』には「釜谷宿(中略)鹿島屋夕食 三人にて百四文、但し酒一合ニ付二十八文共ニ」とあり、酒を飲みながら鹿島屋で夕食をとったことが記されています」
鹿嶋屋について。
「鎌ケ谷宿には寛政12年(1800年)には7軒の旅籠が、また明治7年(1874年)には 鹿島屋 丸屋 銚子屋 船橋屋 という4軒の旅籠が存在したことがわかっています。」
7月30日
嘉永6年に7月は小の月のため7月30日はありません。
#五郎兵衛の日記 はお休みです。
7月31日
旧暦に31日はありません。
#五郎兵衛の日記 はお休みです。
嘉永6年8月上旬・大原幽学刑事裁判
嘉永6年8月1日(朔)(1853年)
#五郎兵衛の日記
鎌ケ谷を朝出立し、行徳で早めの中食。昼前に船に乗って、江戸の扇橋に着く。
邑楽屋(大原幽学の公事宿)で皆と相談。経費節減のため、公事宿を替えた形にして、皆で借家に住むこととする。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
鎌ケ谷宿(鎌ケ谷市鎌ケ谷)を出発し、江戸に着きました。鎌ケ谷〜行徳は木下街道、行徳〜扇橋は船です。裁判のため江戸滞在を強制されるので、経費を節減するために、皆で借家に住むことを計画しています。違法行為ですが、背に腹は代えられないとの思いからでしょう。
嘉永6年8月2日(1853年)
#五郎兵衛の日記
公事宿替えの手続きのため、勘定奉行所等に行く。山形屋の手代から「何か気に入らないことがあったのですか」といわれた。小生から「山形屋さんには問題はないです、役所に近いところにするだけです」と答えた。
奉行所に宿替届を提出。呼び出されて訴所へ。「この度の儀であるが、10月5日まで帰村を認める。なお、幽学は村預けとする。幽学は浪人であるから、本来であれば揚がり屋に入ることとなるから、村預けは御上の御仁志である」との仰せ。
この日、蓮屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
公事宿替えの手続きを行っています。五郎兵衛ら長沼村組は山形屋という公事宿に泊まっていましたので、山形屋さんから宿替えの理由を尋ねられています。自分たちの落ち度だと思ったのでしょうか。五郎兵衛らは江戸に来たばかりですが、審理もないまま、また帰村が認められました。
今度は約2ヶ月認められています。
嘉永6年8月3日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昨日、奉行所から帰村許可がでたので、本日はその準備。淀藩上屋敷で帰村の届けをし、ご返翰を頂戴する。山形屋、邑楽屋に暇乞いの挨拶。山形屋では、宿替えの理由を再度尋ねられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
五郎兵衛らは帰村の準備。奉行所からの許可がでたら、領主(長沼村は淀藩が領主)の確認が必要で、村に帰るにはご返翰が必要です。後はお世話になった方に挨拶。山形屋からは再度宿替えの理由を尋ねられています。
嘉永6年8月4日(1853年)
#五郎兵衛の日記
上様がご出館なされるので、道は通行止め。夕方、ようやく通行できるようになったので、小石川の高松様宅に暇乞いに(高松様は上様ご出館のお供で不在)。その後
明日の出立のため荷造りをする。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
昨日領主のご返翰(帰村の確認証)をいただいたので、法的な準備は整いましたが、本日は将軍が城外に出るため、付近一帯が交通規制。小石川の高松氏にも暇乞いの挨拶をしに行きました。
嘉永6年8月5日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、出立。扇橋から行徳行きの船に乗ろうとしたが、今日は船が出ない。やむなく今井の渡しまで河岸を歩く。八幡まで行って休憩し、鎌ケ谷で昼食。途中から馬を頼む。大森に夕方着き、淀藩のお役所にご返翰をお渡しする。「勝手次第帰村せよ」との仰せに従い、木下まで行き、乗船。根本屋清兵衛で泊まり。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日は江戸からの出立日。扇橋から行徳行きの船が出ているのですが、なぜか今日は欠航。やむなく、今井の渡しまで歩いてるんですが、その距離約8キロ!結構な距離です。扇橋が、日記は淡々と書かれています。
扇橋-今井の渡し旧跡 (8.1 km)
嘉永6年8月6日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝、出立。龍台村の知り合いに立ち寄り、昼前に帰宅。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「龍台村」は成田市竜台。五郎兵衛の居住地長沼村(成田市長沼)からは4キロ程の距離です。帰り道なのでふらっと立寄ってみたのでしょう。
五郎兵衛は帰村したので、日記はしばらく(8月7日〜10月2日)お休みです。
再開は10月3日。
五竜台-長沼(国道408号経由)
8月7日〜10月2日まで #五郎兵衛の日記
はお休みです。10月3日から再開します。