#仮刑律的例 #9盗賊処置
(要約)
(明治元年十一月、伊予西条藩からの伺)
夜盗を働き入牢中の者について伺います。この者、一度夜盗を行いましたが、当春の大赦により釈放致しました。しかし、釈放後に再び夜盗を行いました。重ねての犯罪、不届き至極ですので、死刑としてよいかお伺いします。
【返答】
この者、夜盗とはいっても強盗ではないので、再犯に及んだとはいえ死刑にするほどのことはない。当年九月の即位の礼前の犯罪であり、本来の罪から一等を減じて処置されたい。
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以上はかなり要約したものなので、元のテクストに即して、できるだけ詳しく訳してみました。
#仮刑律的例 #9盗賊処置
【伺い】
明治元年十一月、松平左京大夫(伊予西条藩)からの伺
一 中西村に入牢している弥之吉は夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、ほどなくして再び夜盗を行い、多額の被害が出ました。重ねての犯罪、不届き至極であり、旧幕府の刑律(公事方御定書)及び領内の法に照らすと、死刑に処すべきですので、死刑としてよろしいでしょうか。
一 中村に入牢している良蔵は夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、盗賊亀吉と申す者と申合せ、親元から品物を盗み取りました。
これまた不届き至極ですので、弥之吉と同様死刑としてよろしいでしょうか。
一 洲之内村に入牢している桃太郎は、夜盗を行いました。重々不届き至極であり、死刑を申し付けようとしたところ、当春に大赦があったため、釈放致しました。
しかし、まもなく夜盗に立ち返りましたのは、不届き至極であります。前同様、死刑としてよろしいでしょうか。
【返答】盗賊弥之吉他二名は夜盗とはいっても強盗ではないので、再犯に及んだとはいえ死刑にするほどのことはない。当年九月の即位の礼前の犯罪であり、本来の罪から一等を減じて処置されたい。
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【コメント】
・伊予西条藩からの夜盗を行った者の処置についての伺いです。夜盗とはいっても強盗ではなく、窃盗犯のようです。
・伊予西条藩は三名の者を死刑にしようと考えたため、明治政府に伺いを立てています。明治初年、死刑にする場合は、政府に伺いを立てよという決まりでした。
・三名の犯罪パターンはほぼ同じで、夜盗⇒大赦による釈放⇒夜盗の再犯というものです。
・窃盗犯とはいえ、「公事方御定書」では、①10両以上のお金を盗んだ場合、②他人宅に忍び込んで物を盗んだ場合は死罪とされていました。それゆえ、伊予西条藩の担当者は、旧幕府の刑律(公事方御定書)等により、本件は死刑に処すべきと考えたのです。
・しかし、明治政府はこの考え方を取りませんでした。窃盗については、明治元年10月に公事方御定書の考え方を否定して、死刑となるべき要件を限定しています。倉庫破りをしたが窃盗には至らなかった場合は笞50回、盗みをした場合は被害金額が20金以下であれば笞百回との布告がでています(刑律改定についての行政官布告)。この考え方を前提として、本件については死刑とするまでもないとの結論を出していると思われます。
・本件で裁判対象となっている者はいずれも牢屋に入れられております。牢屋は今でいえば拘置所、つまり裁判がでるまでに拘束される場所です(未決勾留場所)。裁判にかけられている三名は、全員異なる村に拘束されています(中西村、中村、洲之内村)。江戸では伝馬町に牢屋敷を建て、集中的に拘束していたため、異常な過剰拘禁状態が生じていましたが、地方では江戸ほどの犯罪件数はないたので、伝馬町村牢屋敷のような大きな施設は作らず、村のレベルで牢屋を作っていたのではないかと思います。