南斗屋のブログ

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嘉永6年10月中旬・大原幽学刑事裁判

2023年10月26日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月中旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

嘉永6年10月11日(1853年)
#五郎兵衛の日記
借家暮らしで必要なものを各自買いに行く。 鉢を買う者、キセルを取り替えに行く者。日没後、大家がまた碁を打ちにきた。夜、大風が吹いたため眠れず。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
今回江戸に出てきてからは公事宿に泊まらず、神田松枝町の借家で一同暮らしています。この借家の大家は相当な碁好きらしく、今日もまた碁を打ちに来ました。

嘉永6年10月12日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼過ぎに 力蔵様がおいでになられた。以前みんなが力蔵様に書誦の師匠を懇願したことについてのご相談であった 。高松様は、お台場に御出役で、 四勤一休とのこと 。夕方また大家が遊びに来て 、幸左衛門と碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
高松様は幕府の役人(御小人目付)。ペリー来航時には、東京湾の陣屋の見分の役目を行うなど、下級役人として活躍をしています(6月11日条)。今度はお台場に御出役とさらに活躍しているようです。


嘉永6年10月13日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後、 大原 幽学先生から荒海村の先祖株のことでお話しがあった 。「自分の好きなものを好き勝手に買うのでは、誰も身上を持つことができない。決め事を守らず、 各自好き勝手なことをするのでは物事は永続しない。干潟の方では改革ができているのだから、これを手本として荒海村も改革をすべきである。」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
荒海村は現成田市荒海。日記の著者五郎兵衛が住む長沼村の隣村。「干潟」は大原幽学が本拠としていた長部村のことでしょう。 長部村の方が先に改革ができたのだから、荒海村でも改革ができると叱咤激励しています。

嘉永6年10月14日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。朝食後、外川屋が火鉢の灰を買いに来た。幸左衛門と 源兵衛は碁に夢中で、馬喰町に碁石を買いに行った。 昼に大家が来て碁を打つ。大家は晩にも来て、また碁を打った。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
灰買い。灰は藍染め、日本酒、土壌改善等に役立つため、江戸時代は灰を買うのが商売として成立していました。「外川屋」は公事宿。副業として灰買いもやっていたようです。外川屋に表向きはいることになっている裁判関係者の監視という側面もあるのかも。

嘉永6年10月15日(1853年)
#五郎兵衛の日記
朝食後一同髪結い。良祐殿と源兵衛殿は、邑楽屋で肴を買い、小石川の高松様にも持って行った。帰りには鉄瓶を持って帰ってきた。晩に邑楽屋が遊びに来て碁を打った。幸左衛門殿らが二階で大原幽学先生に叱られた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
邑楽屋は大原幽学が宿泊していた公事宿。奉行所には表向き邑楽屋に宿泊していることになっているのかも。そのため、邑楽屋としては遊びに来たという体で、松枝町の借家の様子を見に来ているという側面もあるのかもです。

嘉永6年10月16日(1853年)
#五郎兵衛の日記
早朝から大原幽学先生に叱られた。
「無駄遣いして、永続の法を破ることばかりしている。皆が豊かになるために仕法を立てても、皆の腹が変わらないなら無駄なことだ。長部村のご老人のように、自分のものは人にあげ、人のものは 三文でも損をさせないという了見があれば、身上を持てる。予と同じ考えにならなければ、予亡き後は身上を持つことは難しかろう」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
大原幽学先生は、昨日幸左衛門らを叱っていましたが、今日は五郎兵衛らが叱られました。幽学の言はよくわからないところもあるのですが、五郎兵衛が日記にその言葉を書き残しているのを見ると、五郎兵衛ら農家の心には沁み入るような言葉だったのでしょう。

嘉永6年10月17日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
正太郎殿が帰村される。その時大原幽学先生は、「これまで心得違いをしていたことをよく考えよ。皆で決めたことを自分も道友も守り通すことができるならば、仕法は必ずなる」とお話になられた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
「正太郎」は林正太郎。十日市場村の名主林伊兵衛の子。林伊兵衛は組与力給地四ヶ村の割元名主を勤めた村内最有力の地主。それもあってか、正太郎は金銭を塵芥のように使い捨て、他人が意見しても聞かない不良であったという。大原幽学に出会い改心。幽学在世中は若手門人の中心的存在であった。この時代、人々は個人主義に走り、自分勝手に生きてもよいという風潮があったようです。そんな考え方は心得違い(間違い)であり、仕法のためには皆で決めたことを守っていくことが必要というのが 大原 幽学の教えです。


嘉永6年10月18日(1853年)
#五郎兵衛の日記 
幸左衛門殿、平右衛門殿、良祐殿と昼前に雨障子を張った。幸左衛門殿は、その後 幽学先生と小石川の高松様のお宅へ行き、両国亀屋で足袋を買ってきた。
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
奉行所からの呼び出し もないため、平凡な日常が記録されています。障子を張ったり、足袋を買ったり。今では日常の風景としては失われてしまったものばかりですね。

嘉永6年10月19日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幽学先生から「身上を持つのは難しくない。隠居の祖父が借金をしていて名主を務めている者から物をもらっても、貰った気がしないから、その名主は人からそしられない。根性が汚くないからだ。そういう者は身上が持てる」
#大原幽学刑事裁判
(コメント)
本日の大原幽学先生のお話も、何を言ってるのか今一つ私にはよくわかりません。心を清くして生きていれば、身上がもてる=皆で豊かになれるということでしょうか。この時代でもそこまで単純だったとは思えませんが、五郎兵衛ら門弟の個人主義的な考えを変えようとの幽学の気魄は五郎兵衛には伝わったと思われます。

嘉永6年10月20日(1853年)
#五郎兵衛の日記
一同髪結。蓮屋が来たので、今後の裁判の見通しについて話す。小生は源兵衛殿と二人で丁子屋でタバコを、山口屋で炭を買った。晩に 永之助殿夫婦が来た。幽学先生は 「世の中は変化する。良いものが富まず、悪しきものが富むこともある。一生楽しく暮らすも苦しく暮らすも、自分の了見一つ。夫婦が心をそろえれば家内を治めることは難しくない」とお話しになられた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
丁子屋でタバコ、山口屋で炭。どちらも何回か日記で言及されています。なんてことない日常の風景であり、日記の記事なのですが、なぜか心にささります。我々の日常もそのようなことの積み重ねだからでしょうか。

丁子屋でタバコ(2月2日条)

山口屋で炭(嘉永6年10月8日条)







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