南斗屋のブログ

基本、月曜と木曜に更新します

明治の裁判官 布施文四郎 又は文亮

2023年10月09日 | 歴史を振り返る
明治の裁判官 布施文四郎(文亮)

千葉県出身の明治の裁判官布施文四郎について。複数の文献に同人の経歴が記載されていました。検討する暇がないため、とりあえずそのまま掲載し、検討は後日したいと思います。

千葉県香取郡役所『千葉県香取郡誌』(大正10年)
布施文四郎
「飯高村飯高区の人。父を八左衛門という。幼にして高野隆に学び、東京に至り、明治17年司法省学校に入り、明治19年2月卒。同月長野始審裁判所判事。松本、静岡の区裁判所裁判所判事を経て、東京控訴院判事。従五位勲六等に叙す。明治37年2月、病により職を退き、郷里に静養す。明治38年9月4日、銚子別荘に没す(45歳)。人の為り方正にして、志行頗る高し。少時教鞭取りしをもって、郷里の子弟、教を受けるもの多く、有用の士を出せり。」

東大のホームページには以下のような記載がありました。
「布施文四郎(文亮)は天保元年の生まれ。文四郎は、江戸に出て、神田お玉ケ池にあった千葉道場に赴き、 幕末の剣客として有名な北辰一刀流の祖千葉周作の門に入り、 「北辰一刀流兵法箇条目録」一巻の伝授を受けた剣の達人であった。 千葉道場で目録を貰ってから、嘉永七年正月二十六日、華岡青州の塾に入門した。 一八六四年に、八日市場村近郊の貝塚において、水戸藩尊攘派天狗党と書生党との激しい白兵戦が行われたとき、 文四郎は臆せず戦場内に進入し、負傷者の治療を行い、数十人を救ったという。」
布施文四郎の子孫に眼科医布施郁三が出て、東大文学部に寄付。布文館が設置された。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする