文政11年10月中旬・色川三中「家事志」
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第三巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。
文政11年10月11日(1828年)晴
以前、竹中七兵衛殿が裏に物置を建てたいと言ってきており、これを認めることとした。今日、建てはじめ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
竹中七兵衛は、ひものやとのトラブルで間に入ってもらい、三中の為に解決に尽力。その人からの頼みでは、聞くしかないですよね。
文政11年8月26日(1828年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) August 25, 2023
ひものやとの件は結局合意できず。竹中七兵衛殿から、「ひものや鉄五郎が違うことを言い出した。合意できそうにない。書いてもらった示談書案すら受け取らないのだよ」との話し。#色川三中 #家事志
文政11年10月12日(1828年)
夜 大風雨。十月の大雨は珍しい。今年は雨ばかりで水が引く暇がない。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この年はどうにも雨が多く、水害も起こっています。旧暦十月ですから、今の暦なら11月末か12月。確かに普通ならそんなに大雨は降らないはず。やはりこの年は異常気象?
文政11年10月13日(1828年)
本日、色川三中先生休筆。
#色川三中 #家事志
文政11年10月14日(1828年)晴
亥の子のおはぎを拵えて、木原様と塚本にも持っていかせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
亥の子のおはぎを木原様(土浦藩士)と塚本さんからいただいたので(10月9日条)、そのお返し。木原様は三中にいろいろと気を遣っており、最近ではお見舞いとして白玉しるこを三中に贈っていました(8月14日条)。
文政11年10月9日(1828年)晴
— 断感ろーれんす (@tk23956) October 8, 2023
・亥の日。亥の子のおはぎを木原様と塚本からいただく。
・与兵衛と佐助が鹿島への営業に出立す。#色川三中 #家事志
文政11年10月15日(1828年)
(編集より)本日の日記には、老中水野忠成の発した御触書を写したものが記載されていますので、その要点をご紹介します。
#色川三中 #家事志
【御触書】(九月)
老中水野出羽守様から。古金銀をまだ引換えていないものがあるようだが、引替所を廃止してしまえば不都合になるのだから、精をだして引替えよ。引替えていないことが後でわかったら、御代官領主地頭が穿鑿することになるぞ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
水野出羽守は、老中水野 忠成(みずの ただあきら)のこと。老中在職期間は文化14年(1817年) - 天保5年(1834年)。「水の(水野)出て元の田沼になりにけり」といわれ、将軍家斉期に田沼政治の再来をもたらした。
財政再建策として、貨幣改悪鋳=出目獲得が取られる(文政貨幣改鋳)。今日の記事の御触書はこの改鋳に関わるもの。庶民は古金銀を保持し、改悪鋳したものに引替えない。これに苛立ち、脅すような御触書。三中がこれをわざわざ日記に写したのは、商人として古金銀を相当数保持していたからでしょう。
文政11年10月16日(1828年) 晴
与兵衛と佐助、鹿島への営業に出立す。
#色川三中 #家事志
(コメント)
与兵衛と佐助は10月2日に鹿島方面に営業に行っています。三中の事業(薬種商)は好調なようです。もっとも、日記にはいつ帰ってきたかが書いておらず、この二人がどれだけ土浦で休めたのかは不明。
文政11年10月2日(1828年)
— 断感ろーれんす (@tk23956) October 1, 2023
・霧が降り、天気朦朧。
・与兵衛と佐助が鹿島への営業に出立す。
・夜、上方の宗伯様を名乗る高額の漢方薬の注文があったが、使いの者がどうも怪しい。確かめたら、文書は偽造であり、危うく詐欺にあうところであった。#色川三中 #家事志
文政11年10月17日(1828年)晴
ゆみが生まれたお祝いをいただいたところにこわめしを配るよう申し付ける。
今日ゆみ出初め。与兵衛妻に頼み、連れ歩いてもらった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
子ども(ゆみ:本年8月27日生)関係の記事。出初め。子どもの初外出。お祝いをいただいたところに、赤飯を持って子ども連れで挨拶回りにいくんですね。
文政11年10月18日(1828年)
(編集より)本日の日記は、関東取締出役の御用書付の写しです。要点をツイートします。
#色川三中 #家事志
【関東取締出役下山逢吉・原戸一郎・堀口与四郎】
本年8月12日以降、武州、上州又は生国不明な20-30歳の者を見かけたら、取り逃さないようにせよ。髪を剃った道者風か、俗体での物貰いかどちらもありうる。
旅籠屋や木賃宿は当面入念に改めること。寺社も同様。なお、手荒なことはしないように。
(コメント)
関東取締出役は関東を管轄とする警察のようなもの。もっとも、人員が少なく現代のような警察活動とは大違い。
武州、上州の20代の者が8月中旬の事件に関与しているようですが、随分と大雑把な手配書です。8月中旬に事件があり、9月に手配書を書いて、土浦まで書付が回ってくるのにさらに一ヶ月。
文政11年10月19日(1828年)曇
・昨夕、色川庄右衛門殿が土浦に帰宅された。私が送った手紙は届いておらず、ご覧になっていないとのこと。
・昨日、高津台の畑で大根を収穫。廿四駄四束有り。太くできて良い出来。
#色川三中 #家事志
(コメント)
見事な大根を収穫できたようですね。
現在、土浦市には中高津、下高津の地名があり、「高津台」はこのあたりのことかと思われます。土浦は低地ですが、高津は台地で、畑作で大根を作っていたのでしょう。
文政11年10月20日(1828年)晴
・夷講 大景気
・今日、ゆみ笑い初め
#色川三中 #家事志
(コメント)
・夷(えびす)講は、えびすを祀る庶民信仰。10月20日と1月20日の年2回またはいずれかに年1回開催する地域が多いとされています。10月20日に開催された夷講の人手が多く、景気が良かったようです。
・ゆみちゃん(本年8月27日生)は、今日笑い初め。子への言及多し。この辺の親バカぶりは古今東西変わらぬものでしょう。