南斗屋のブログ

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江戸に出府すれど相変わらず審理なし 嘉永6年10月上旬・大原幽学刑事裁判

2023年10月16日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年10月上旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(大意)。

8月7日〜10月2日まで #五郎兵衛の日記
はお休みです(五郎兵衛、帰村につき)。10月3日から再開。
#大原幽学刑事裁判 

嘉永6年10月3日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
日の出前に長沼村を出立。大森に正午ころ着き、江戸出府の為の手続き(添翰を願い出る)。昼過ぎ諸徳寺村の三人(又左衛門、良蔵、源兵衛)と合流し、昼食。白井に夕方着、藤屋に泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛は長沼村(現成田市長沼)の農民で、大原幽学の門弟。大原幽学は門弟らと共に江戸で刑事裁判となっており、五郎兵衛も当事者として江戸に行かなければなりません。五郎兵衛は前年の12月から江戸に呼出されていますが、裁判は遅々として進みません。
奉行所は、大原幽学や五郎兵衛らに10月5日までの帰村を認めていました(8月2日条)。長沼村から江戸までは一泊二日の行程。余裕を見てか、本日3日に同村を出立しています。
今回の宿は白井(現白井市)の藤屋。白井宿は木下(きおろし)街道の宿場町ですが、旅籠は2軒のみ。安政期~文政期頃とされている史料には白井宿に2軒の旅籠があり、名前は藤屋と森田屋と記載されているそうです。この藤屋には渡辺崋山も宿泊しています(白井市郷土史の会のブログ)。


嘉永6年10月4日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
日の出ころ白井宿を出立。鎌ケ谷宿までは駄賃を払ってそれぞれ馬一匹頼む。昼前に行徳着。昼食。行徳からは船で小網町まで。神田松枝町の借家に寄った後、晩は邑楽屋で幽学先生、良祐殿と泊まる。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
白井宿を出て江戸に着きました。木下(きおろし)街道で行徳(市川市行徳)まで行き、行徳からは船。五郎兵衛にとっては定番のコースです。
江戸小網町(現中央区日本橋小網町)には江戸時代、行徳河岸があり、ここから行徳行きの船が出ます。

嘉永6年10月5日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
松枝町の借家の2階に幽学先生の持物を運ぶ。今後はここが拠点。諸徳寺村から村役人の武左衛門が幽学先生に相談に来たので、先生は村役人となる心得について説いていた。
小生は本日三河町の万徳で泊。越後の客と同宿。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学が諸徳寺村の武左衛門に説いていた内容
「村役人を勤めるには自分の考えでやってはならないぞ。村中の者に知恵を借りて、事に当たるのが第一。お上のところでも、『私は不器量なものですから、村方へ相談の上でお話し致します』と日延べを願う方がお上への通りもよいものだ」
なかなか含蓄のある大原幽学先生の教え。村役人は村と領主の間に立って調整をしていかなければならないので、自分の考えを押し出さず、村中の者に知恵を借りなければ村はまとまらないでしょう。お上(領主)にも不器量という体にして日延べを願うくらいがよいとのアドバイス。
ところで、大原幽学らはこれまで湊川の借家を借りていましたが、神田松枝町の借家に変えました。今後は、松枝町で大原幽学先生と道友一同が起居するようになります。経費節減の為です。

嘉永6年10月6日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
三河町の万徳で書面を作成し、御奉行所腰掛へ一人で行った。公事宿の蓮屋の手代がいたので、着届けの手続きをお願いした。奉行所「おって沙汰があるまで公事宿で控えておれ」との仰せ。
その後、淀藩上屋敷に行き、御添翰をお渡しした。松枝町の借家に寄った後、日暮れに万徳に帰り、同所泊。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
五郎兵衛も江戸での訴訟に慣れてきて、書面を作成し、御奉行所腰掛(裁判所待合室)に一人で行っています。その後、長沼村の領主である淀藩の上屋敷へ。江戸出府の手続きとして、大森の淀藩の役所で発行してもらった御添翰(出府許可証)を提出しています。

嘉永6年10月7日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
今日から道友一同、松枝町の借家で寝泊まりすることとなった。ここ数日宿泊した万徳の勘定を済まし、暇乞い。松枝町へ行く。無駄遣いしないため、所持金は一旦幽学先生に預け、一両八百文を貰って各自の出費を帳面を付け、晦日に決算することを決めた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学らはこれまで湊川の借家を借りていましたが、神田松枝町の借家に変え、ここで大原幽学先生、門弟一同が起居するようにしました。今日から五郎兵衛も合流。経費節減の為に金銭の管理ルールを決めています。

嘉永6年10月8日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
良祐殿が松枝町の借家に膳棚を拵えた。小生は泉橋川岸の山口屋に炭を、新橋川岸に薪を買いに行った。外川屋が来て、源兵衛と将棋を指した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
松枝町の借家の生活を整える為に、五郎兵衛は炭や薪を購入しに、行っています。
「良祐殿」は長部町の名主遠藤家の孫。このとき10代後半のはずですが、率先して膳棚を作っています。
「良祐殿」は遠藤良左衛門の子になりますが、五郎兵衛は親には「良左衛門君
」となぜか君付け。良左衛門の弱腰の性格もあってのことでしょうか。
良左衛門弱腰で大原幽学に叱責さる


嘉永6年10月9日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
所用で三河町の万徳に行ったら、連絡先を教えてほしいというので、「松枝町家主彦十郎店組弁慶橋通り横町の三軒目」と書いて渡した。
借家に夜家主が来て、夜半まで良祐殿、善兵衛殿、幸左衛門殿と碁を打っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
松枝町の借家の位置が記録されている記事。家主は彦十郎。その家主が夜中に碁を打ちに来ています。夜中まで碁を打っており、この家主余程の碁好きなのか。それにしても、裁判にかけられた訳ありの大原幽学一門に家を貸すとは、この家主、なかなか太っ腹です。

嘉永6年10月10日(1853丑年)
#五郎兵衛の日記
一同で髪結い。浅草に散歩に行った者がいて、菊見物をしてきたとのこと。幸左衛門は馬喰町に碁盤を買いに行った。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幸左衛門は、昨日家主が来て、碁を打った相手の一人。昨日打ったので碁盤を買いたくなったのでしょうか。経費節約しなければならないのに、碁盤を買う余裕があるのか?とツッコミたくなります。
幸左衛門の性格=強情










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