歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

深水聡之『異天正記』のご紹介

2010-12-15 22:00:14 | 日記
少し前のことですが、深水聡之氏のブログで前作『関ヶ原群雄伝』が紹介されております。
僕もブログ立ち上げに際して気が付き、此方でも是非取り上げようと。
・・・もう、開設から1月立ってますね。すみません、深水先生。そして、ありがとうございます。


  
『異天正記』(歴史群像新書)画像は9月発売の2巻です。


深水さんは「第13回歴史群像大賞」最優秀賞を受賞されているので、私より一期先輩(?)になります。

さて、この作品ですが主人公は三好孫七郎・・・後の豊臣秀次です。
智本光隆も・・・そして、他の書き手の方もそうだとは思うのですが、
主人公の選定というのは悩みどころ。
「この人で行きたい!」と思っても、世間一般的に先行しているイメージがあります。
『関ヶ原群雄伝』は小早川秀秋が準主役格でしたが、とにかく序盤は色んな意味で試行錯誤の連続でした。
秀秋のイメージ・・・まあ、説明は今更不要かと。

豊臣秀次はお世辞にも好イメージが先行している人物ではありません。
僕も「マイナー道」(笑)と言われたことがありますが、この主人公の選択は驚きました。
かなり大胆な試みだと思います。しかし、確かにチャレンジしたくもあります。
また、序盤の秀次の心理描写は他の作品にはない、斬新な手法が取られています。
もちろん、歴史背景は非常に精緻に描かれています。

第2巻『異天正記 巨龍降臨』はこの9月の発売でしたので、是非ともご覧ください。
ちなみに↓は深水さんのブログです。

深水聡之の棲む城  http://ameblo.jp/sat-in75/



智本光隆



本能寺将星録紀行2―勝龍寺城―

2010-12-15 00:24:30 | 本能寺将星録
さて、「本能寺将星録紀行」第2回は長岡京市の「勝龍寺城」です。
この城は織田政権で細川家の居城となり、今作では度々登場しております。

古来においてこの地は桓武天皇により、長岡京が造成されたのは有名なところ。
この一帯は久我畷と称され、京都―難波間の交通の要所でもあり、同時に軍事的対立の場所でもありました。
智本光隆は元々、専攻は南北朝時代ですが元弘、建武、そして観応の擾乱と幾度も戦いの舞台となっております。
特に有名なのは元弘3年4月、足利尊氏はこの地で鎌倉幕府に離反し、丹波篠村八幡宮で宮方の旗を掲げています。
この軍勢の中には細川家の祖先も、当然加わっていた訳で。

時代はやや下り、1338年(延元4 暦応2)、南朝は北畠顕家、新田義貞が立て続けに死んだその年、
足利方が洛南のこの地に築いたのが勝龍寺城です。
淀川南の男山は南朝の拠点のひとつであり、都奪還を目指す宮方に備える目的があったとされます。
そして、この城を築いたのが細川頼春。その子が藤孝、忠興の祖先となる細川頼有になります。

しかしながら、この伝承は後に勝龍寺城城主となった細川氏が、正統性を強調する為の創作との説もあります。
ただ、当時の南北朝の力関係から、この地の北朝方拠点を任せられるのは、京都守護を務める細川頼春というのが妥当な気も。
実際、頼春は正平の一統による宮方の京都乱入で、都を守って戦死していますし。

さて、そんな感じで長岡京駅から、いざ勝龍寺城へ!・・・・・休園日でした!!
現在、城跡は「勝龍寺公園」になっているそうです。
仕方なく、これだけ撮って帰るさ。平成4年から「長岡京ガラシャ祭り」があるそうです。



かかり付けの眼科さんに聞いた話なのですが、熊本にも「ガラシャ通り」があるそうな。

・・・地元の皆さん、忠興にも少し触れてあげて下さい。

で、めげずに二日後。


   
ちなみにイベントの際には、城門に「九曜」と「二引両」の旗が立つようです。


作中でも触れていますが、永禄11年(1568)の織田信長の上洛時、勝龍寺城は三好三人衆のひとり岩成友通の支配下。
藤孝はこれを討ち果たし、信長より先祖由来の城と長岡の一帯を与えられました。
忠興と珠子はこの勝龍寺城において婚儀を上げております。公園内には平成3年鋳造の銅像が。


   
以前のものと別アングル。そして、城内の様子を。


ちなみに、勝龍寺城は小説(主にガラシャ主人公や明智物)ではただの小城に描かれることが多いですが、
発掘調査ではかなりの規模の城であったとのこと。作中では折衷的な描写になってますが。
他の作中描写としては大手道の松並木とかあります(現存はせず)
そちらは「山城国西岡御領地之図」(永青文庫)に拠っています。

勝龍寺城は本能寺の変当時、帰属が少々不明な面もあります。
基本、地元では細川家の城と位置付けているようです。
そんな訳で、今作でもそのように(笑)



別アングルと言いながら、前のと似てたので別の角度を。スイマセン。