さて、安土より帰還。
次なる目的地は洛西深く分け入った地、その名は愛宕山。
愛宕山は山城・丹波の国境に位置する山。
大宝年間(701-704)に神廟が開かれ、古来より修験道の聖地とされた山です。
本能寺の変直前の天正10年5月28日、この山を訪れた明智光秀は連歌会において百韻の発句に
「時は今、雨が下知る皐月かな」と読み、織田信長への叛意を示したと。
ちなみに『本能寺将星録』を書くにあたり、真っ先に思い描いたのは、
愛宕山での細川忠興と明智光秀のシーンだったりします。
さて、そんな訳で三条京阪からバスで麓の清滝へ。
嵐山経由。修学旅行生が大勢いました。
しかし、この日は前夜から雨。まあ、「梅雨の時期であるから、一日中晴れた空を仰ぐということは難しい」
・・・何てシーン何処かにありましたが、まさにそんな時期で。
清滝に到着する頃には、何とか雨は上がりましたが。ちなみに、客は僕ひとり。
渡猿橋から清滝川を望む。
愛宕へと修業に訪れた文覚上人が、ここで猿が連なって魚を取っていたことに由来。
作中にも登場するのですが、橋そのもの写真を撮っていない間抜け。
しかし、また雨が。う~ん、どうしたもんか。15分程度、様子を見ましたが。
10時23分、入山します。
『本能寺将星録』の作中、愛宕山と細川家とは密接な関係があったとしています。
京兆家の細川政元は修験道にのめり込んだとされ、奇人変人に描かれることが多いのですが、
細川家(京兆家)の全盛を築いた男には、思惑があったに違いない・・・そこから得た描写になりました。
この愛宕山、戦前はロープウェイが設置され、山頂にはスキー場やホテルが建設されたとのこと。
戦時中の金属供出で廃止、戦後は信仰の山へと戻りました。
その参道に足を踏み入れたのですが・・・
一歩、登る度に足を取られる、泥の参道。
振ったり止んだりの雨。
で、あっちこっちに流れる小川?を飛び越える。
まず、30分歩いたのですが、この時点で靴はずるずると滑る。
装備はそれなりに背負っていたのですが、靴が少々甘かったかも知れません。
根本的に僕の登山スキルの問題という気がしますが。
更に10分歩いたところでかなり強めの雨。
愛宕山は普通に登っても2時間~2時間半はかかるそうなので、
この様子だと3時間は見なければならない。
下山は夕方。いや、この足元ではもっとか。
しかし、智本光隆は入山に際し、ひとつの誓いを立てました。
「如何な状況でも、山頂までいければ今度の作品も、書き上げることが出来る」と。
その決意を新たにした瞬間、頭の上から振ってきたような天の声。
担当・A田氏「いや、登らなくても書いて下さい」
そんな天の声にも変な声が。
・・・はい、そうっすね。
一応、その後も5分程度進んだのですが、濁流っぽいのが行く手を阻むに至って断念。
すいません、山を甘く見てました。
この翌日、母校を訪問して恩師の先生とそのゼミ生(後輩にあたるのか)にこの話をした所、
「そりゃ、この時期に無茶だ」
と斬って捨てられました。
しかし、梅雨の時期にこの山を登った光秀、そして忠興(作中では)はすごい!!
それを実感して、愛宕を去りました。
何だよ、この締め方は。
途中で写真どころではなくなったので、数枚ですが一応。
参道の傍らには地蔵菩薩。このあたりはまだ歩きやすい。
ちなみに、嵯峨周辺には足利尊氏が後醍醐天皇を弔った天龍寺、
他に新田義貞、楠木正行、足利義詮の墓なんかもあります。
南北朝ファンにはかなり嬉しい。
京都在住当時、もちろん行ったことはありますが、当時はフィルムカメラだったもので、
機会があれば写真を整理して紹介を。
さて・・・そんな訳で今日の所は帰りましょう。
ところで、智本光隆は大学在学中、左京区一乗寺に暮らしておりました。
今回も、そのあたりに泊まっております。
一乗寺と言えば宮本武蔵と吉岡一門の決闘「一乗寺下がり松」で有名ですね。
で、そんな我が下宿の街。どんな所かといいますと、
叡山電鉄一乗寺前。
はい、こんな所。分かる人、多いのか少ないのは見当もつかない。
いや、深夜に偶然見た時は驚いた。
あのアニメ作った奴、きっと天天有のラーメン食ってたな。
俺は鶴はしも好きだけど。
ちなみに隣、修学院駅。
何気に今日で6日連続更新。このブログ始まってから初。
・・・って、今回は一体、何の紀行やねん!!