JR山手線・高田馬場駅は、学生の頃からよく使っており、今も頻繁に利用する駅となっています。高田馬場というと昔は大学だけでなく予備校や雀荘、学生ローンの店などもあって「学生の街」という風情でしたが、今は留学生向けの予備校の簡体字の看板をよく見かけ、時代の変化を感じます。また、最近は地下鉄東西線の開通の頃に作られたビルが取り壊され、再開発も進んでいます。
さて、高田馬場駅の跨線橋には古レールが使われており、ホーム側で支えている古レールに、こんなものを見つけました。

丸にSの文字が入った日本製鉄(旧八幡製鉄所)のレールですが、製造年に注目です。

50 PS Ⓢ 2602 IIIII OH
50ポンドのPS(ペンシルベニア鉄道規格)断面、〇にSマークは八幡製鉄所以来のマーク、2602年5月に平炉(Open Hearth)により製造という意味です。
製造年を示す四桁の数字には2602とあります。これは西暦ではなく皇紀表示であり、数字の右の縦棒から判読しますと2602(昭和17)年5月製造、となります。昭和16年以降、日本製鉄所のレールについてはそれまでの西暦ではなく皇紀表示で刻印の上、製造されていたようです。このブログの読者の皆様には説明の必要は無いとは思いますが、以前出てきた97式戦車というのは皇紀表示の末尾二けたである2597(昭和12)年に制式化されたことによりますし、ゼロ戦こと零式艦上戦闘機や100式司令部偵察機は皇紀2600(昭和15)年に制式化されたことに由来します。
西暦を用いず皇紀表示にしたり、英語は敵性語として忌避すらした当時の日本ですが、このレールには皇紀表記としながらも米国の鉄道の規格を示すアルファベットや、平炉の英訳に当たる言葉の略称を刻印に入れています。
こうした皇紀表記、戦争の期間を通じてレールの刻印に残っているそうです。2602(昭和17)年というのは先の大戦のターニングポイントともなった年で、このレールが作られた翌月の6月にはミッドウェー海戦で日本海軍が空母4隻を失うという大敗を喫しています。また、連合軍の北アフリカ上陸、スターリングラード攻防戦など、開戦以降押し気味だった枢軸国と連合国の立場が変わろうとしていた時でした。ちなみにこの年の7月には関門トンネルが開通、当初は単線ではありましたが本州と九州がレールでつながりました。
まだ2602年のレールでしたら見かけることができるのですが、さすがに「五式」昭和20年のレールは少ないようで、私も見たことがありません。
皇紀表示というのは戦争と共に終わったはずですが、戦後製造されたレールにも意外な形で残されていました。西野保行著「鉄道史見てある記」(吉井書店)のレール余話・その三「皇紀二六〇八年製」という記事によりますと、戦後生産された日本製鉄(八幡製鉄所)系のレールの中に2606年、2607年、2608年といった表記が見られるということでした(私も見かけたことがあります)。ところが公式には1948(昭和23)年11月に日本製鉄ではレールの生産を再開したとあります。西暦ではなく皇紀表示となっていた理由について著者の西野氏は「戦後も何らかの理由で非公式にレールが作られており、その間は皇紀表示としていた。正式に生産を再開した時以降、西暦表示に戻したのではないか」と考察しています。
さて、跨線橋を支えている古レールに戻りますが、何十年も使っている駅にも関わらず、今まで気が付きませんでした。もともと売店か自販機か何かがあって隠れていたからでしょうか。見つけやすいところに、刻印も読み取りやすい形で昭和の歴史の一部を伝えるものが残されていますので、探してみてはいかがでしょうか。西武新宿線と山手線を結ぶ跨線橋の山手線ホーム上、目白駅方向の階段を支えている梁にあたります。混み合う駅ですので、くれぐれもマナーを守ってください。
さて、高田馬場駅の跨線橋には古レールが使われており、ホーム側で支えている古レールに、こんなものを見つけました。

丸にSの文字が入った日本製鉄(旧八幡製鉄所)のレールですが、製造年に注目です。

50 PS Ⓢ 2602 IIIII OH
50ポンドのPS(ペンシルベニア鉄道規格)断面、〇にSマークは八幡製鉄所以来のマーク、2602年5月に平炉(Open Hearth)により製造という意味です。
製造年を示す四桁の数字には2602とあります。これは西暦ではなく皇紀表示であり、数字の右の縦棒から判読しますと2602(昭和17)年5月製造、となります。昭和16年以降、日本製鉄所のレールについてはそれまでの西暦ではなく皇紀表示で刻印の上、製造されていたようです。このブログの読者の皆様には説明の必要は無いとは思いますが、以前出てきた97式戦車というのは皇紀表示の末尾二けたである2597(昭和12)年に制式化されたことによりますし、ゼロ戦こと零式艦上戦闘機や100式司令部偵察機は皇紀2600(昭和15)年に制式化されたことに由来します。
西暦を用いず皇紀表示にしたり、英語は敵性語として忌避すらした当時の日本ですが、このレールには皇紀表記としながらも米国の鉄道の規格を示すアルファベットや、平炉の英訳に当たる言葉の略称を刻印に入れています。
こうした皇紀表記、戦争の期間を通じてレールの刻印に残っているそうです。2602(昭和17)年というのは先の大戦のターニングポイントともなった年で、このレールが作られた翌月の6月にはミッドウェー海戦で日本海軍が空母4隻を失うという大敗を喫しています。また、連合軍の北アフリカ上陸、スターリングラード攻防戦など、開戦以降押し気味だった枢軸国と連合国の立場が変わろうとしていた時でした。ちなみにこの年の7月には関門トンネルが開通、当初は単線ではありましたが本州と九州がレールでつながりました。
まだ2602年のレールでしたら見かけることができるのですが、さすがに「五式」昭和20年のレールは少ないようで、私も見たことがありません。
皇紀表示というのは戦争と共に終わったはずですが、戦後製造されたレールにも意外な形で残されていました。西野保行著「鉄道史見てある記」(吉井書店)のレール余話・その三「皇紀二六〇八年製」という記事によりますと、戦後生産された日本製鉄(八幡製鉄所)系のレールの中に2606年、2607年、2608年といった表記が見られるということでした(私も見かけたことがあります)。ところが公式には1948(昭和23)年11月に日本製鉄ではレールの生産を再開したとあります。西暦ではなく皇紀表示となっていた理由について著者の西野氏は「戦後も何らかの理由で非公式にレールが作られており、その間は皇紀表示としていた。正式に生産を再開した時以降、西暦表示に戻したのではないか」と考察しています。
さて、跨線橋を支えている古レールに戻りますが、何十年も使っている駅にも関わらず、今まで気が付きませんでした。もともと売店か自販機か何かがあって隠れていたからでしょうか。見つけやすいところに、刻印も読み取りやすい形で昭和の歴史の一部を伝えるものが残されていますので、探してみてはいかがでしょうか。西武新宿線と山手線を結ぶ跨線橋の山手線ホーム上、目白駅方向の階段を支えている梁にあたります。混み合う駅ですので、くれぐれもマナーを守ってください。