京都という街はやはり特別な街だなぁと思う。それは東京や大阪のような「都会」さというよりは「地方都市」という感じだし、河原町をみてもユニクロやスタバのようなチェーン店、ロードサイドショップが進出している一方、六曜社のような個性的な喫茶店が残っていたりもする。学生は多いけれど「おしゃれ」というよりは「もっさり」感があるし、そうかと思うと個性的な異彩を放つ学生もいる。
ただ友達と話をしていたのだけれど、やはり「京都」はもともとの京都住民と学生の街なのだと思う。京都で同じように学生時代を過ごした仲間も、気がつくとほとんどが京都を離れてしまっている。就職したり、結婚したり、地元に戻ったり…あるいは未だに芝居を続けている人間でも京都に残っている者は少ない。
それは街そのものが外部のものに対して排他的だということもあるだろうし、何かを成し遂げようとすると京都という街は中途半端な存在だからだろう。学生たちが訪れ、何かを見出し、去っていく、仮初の街なのだ。
そして残ったものたちはそうした仮初のものたちの残していったもの肥やしとしながらも、自らの独自のスタンスを保ち続ける。うまく説明はできないのだけれど、それは政権交代が起こりその一方で失望が広がりつつなる中でも、未だに(東京などとは格段に)革新色を維持し続けられることとも共通している気がする。変わるものと変わらないものとの見極めが他の都市の人々とは全く違うのだ。
で、今日の本題。
京都の一乗寺・詩仙堂と圓光寺へ行ってきたのだけれど、その庭園を見ていて感じたことを。
詩仙堂や圓光寺の庭園を見ていると、これはある意味「絵画」として見ることができるのではないかと思う。それはただの「庭」ではなく、静止画のように、世界の中から切り取られた「断片」だ。
そこでは、「庭」として子供が遊んだり犬を遊ばせたりすることはない。誰もが踏み込むことなく、敷かれている石は風紋のように模様が描かれ、樹木は整然と配置されている。それは1つの世界観の表明であり、小宇宙のようでもある。
本来であれば、その背景の向こうにも当然、世界は連なっている。他の建物が見えるかもしれないし、歩く観光客の姿が見えるかもしれない。しかしそれらさえも、例えば竹林だったり茂みだったりでごく自然に隠しさり、1つの世界をつくりだす。それは世界を切り取ることで返って「無限」の広がりを感じさせるように。
そうした世界観をつくりだすためには生々しい「生」の存在は不要なのだろう。だからこそその風景は「絵画」のような「静」的な世界に通じているだろう。
生々しい「生」が排除されているからといって、それは「死」の世界ではない。絵画がその瞬間を切り取り永遠=死をもたらしたものだとすると、しかし、この「庭園」が作り上げた世界には、風が吹き、葉や枝が揺れ、ささやき、日差しを揺らす。鳥のさえずりが聞こえ、虫たちが動く。そこには激しい「生」は存在しないものの、極慎ましやかにたたずむような「生」の姿が描かれている。
こうした風景、これが日本の原風景だとすると、これほど現代の資本主義社会と相反する世界観もないだろう。欲望を駆動力として拡大と征服を目指す資本主義では、静かにたたずむ、在るものを受け入れるというような態度とはほど遠い。一方は時間の流れさえも1つの世界観の中に閉じ込め「永遠」を感じさせ、もう一方は「Time is MONEY」としてより速度と量を求めようとする。
今、仕事から離れてこんなこうした風景を見るとき、その2つの世界のギャップに驚いてしまうのだ。
ただ友達と話をしていたのだけれど、やはり「京都」はもともとの京都住民と学生の街なのだと思う。京都で同じように学生時代を過ごした仲間も、気がつくとほとんどが京都を離れてしまっている。就職したり、結婚したり、地元に戻ったり…あるいは未だに芝居を続けている人間でも京都に残っている者は少ない。
それは街そのものが外部のものに対して排他的だということもあるだろうし、何かを成し遂げようとすると京都という街は中途半端な存在だからだろう。学生たちが訪れ、何かを見出し、去っていく、仮初の街なのだ。
そして残ったものたちはそうした仮初のものたちの残していったもの肥やしとしながらも、自らの独自のスタンスを保ち続ける。うまく説明はできないのだけれど、それは政権交代が起こりその一方で失望が広がりつつなる中でも、未だに(東京などとは格段に)革新色を維持し続けられることとも共通している気がする。変わるものと変わらないものとの見極めが他の都市の人々とは全く違うのだ。
で、今日の本題。
京都の一乗寺・詩仙堂と圓光寺へ行ってきたのだけれど、その庭園を見ていて感じたことを。
詩仙堂や圓光寺の庭園を見ていると、これはある意味「絵画」として見ることができるのではないかと思う。それはただの「庭」ではなく、静止画のように、世界の中から切り取られた「断片」だ。
そこでは、「庭」として子供が遊んだり犬を遊ばせたりすることはない。誰もが踏み込むことなく、敷かれている石は風紋のように模様が描かれ、樹木は整然と配置されている。それは1つの世界観の表明であり、小宇宙のようでもある。
本来であれば、その背景の向こうにも当然、世界は連なっている。他の建物が見えるかもしれないし、歩く観光客の姿が見えるかもしれない。しかしそれらさえも、例えば竹林だったり茂みだったりでごく自然に隠しさり、1つの世界をつくりだす。それは世界を切り取ることで返って「無限」の広がりを感じさせるように。
そうした世界観をつくりだすためには生々しい「生」の存在は不要なのだろう。だからこそその風景は「絵画」のような「静」的な世界に通じているだろう。
生々しい「生」が排除されているからといって、それは「死」の世界ではない。絵画がその瞬間を切り取り永遠=死をもたらしたものだとすると、しかし、この「庭園」が作り上げた世界には、風が吹き、葉や枝が揺れ、ささやき、日差しを揺らす。鳥のさえずりが聞こえ、虫たちが動く。そこには激しい「生」は存在しないものの、極慎ましやかにたたずむような「生」の姿が描かれている。
こうした風景、これが日本の原風景だとすると、これほど現代の資本主義社会と相反する世界観もないだろう。欲望を駆動力として拡大と征服を目指す資本主義では、静かにたたずむ、在るものを受け入れるというような態度とはほど遠い。一方は時間の流れさえも1つの世界観の中に閉じ込め「永遠」を感じさせ、もう一方は「Time is MONEY」としてより速度と量を求めようとする。
今、仕事から離れてこんなこうした風景を見るとき、その2つの世界のギャップに驚いてしまうのだ。
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