ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

救命士の違法点滴問題と過剰なコンプライアンス意識

2011年03月07日 | Weblog
患者の命を救うために「法」の規定を超えて治療にあたる――テレビドラマや映画であれば、賞賛されるシーンだろうが、現実はそうはいかないらしい。

救急救命士、「生命の危険」で患者に違法点滴 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

交通事故で負傷した男性が救急車で搬送中、大量出血のために意識が朦朧とし始めた。これを見た救急救命士は医師と連絡をとりながら輸血を行う。負傷した患者は病院で治療を受け、快方に向かっている――本来ならば、これでめでたし、めでたしという話なのだけれど、現行の「救急救命士法」の規則では「心肺停止」状態以外の患者への点滴や気管への酸素吸入の措置は認められていない。この救命救急士は違法行為を行ったとして処分されるらしい。

果たしてこの行為をどう見ればいいのだろう。

「たら・れば」の話をしても仕方がないのたけれど、仮にこの事態に対して、A)輸血する技術を持ちながら「救命救急士法」で認められていないため処置を行わなかった救命救急士がいて、結果、患者の命を救えなかった場合とB)規則を逸脱して患者に必要な処置を施し、結果、患者の命を救ったとして、どちらが評価されるべきなのか。

コンプライアンス的にはもちろんAの救命救急士の行動が正しい。1つ1つのケースを見ればBのようなケースの方が適切に見えるものもあるかもしれないが、社会全体としての秩序や適切性を考えれば、法の秩序を維持することこそが必要だからだ。

とはいえ、それはあくまで「理屈」の話だ。個々の命、生と死とに直接向かい合っている現場においては、そのような客観的な判断では動かないだろう。まして患者の側の人間からすれば、そんな規則で振り回されてはたまらない。

そもそも救命救急士法で応急措置が可能になったのも、救急隊員は医師ではないとして一切医療行為ができなかったことに対する反省だったはず。とすれば、どこまでが許されるかというのも「程度」の問題。また実際のその措置をする場合には、医師によるオンラインメディカルコントロールが前提となっているし、(今回もそうだ)現場での判断の余地があってもいいのではないか。

コンプライアンスという言葉が氾濫し、「ルール」に(過度に)従うことが求められる社会。でもこの窮屈さは何だろう。少なくとも先の救命士の行為が違法だと罰せられることに違和感を感じてしまう。

では放置することが正しかったのか。

僕らが物事を測る基準というのは何も「合法性」だけではない。「倫理」「道徳」といった視点を加味したとき、そのように結論を語ることはできるだろうか。

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