ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

インターネットはピュアなメディアか

2008年05月07日 | 思考法・発想法
結局ネットというのは、あらゆる中間項を廃して物事の本質・本性をピュア・〈あるがまま〉に結びつけていくものなのだろう。例えば廃されるものとして、卸問屋や商社などの中間流通業者などがあり、組織内のヒエラルキーであり、我々の肉体であり、社会システム維持装置としてのペルソナや倫理感などだ。

インターネットが普及しだした当時、まだHPの閲覧やメールのやりとりが中心だった頃、商社や問屋を介さずにメーカーと小売店が直接結び付くのではないかと言われた。メーカーはモノを作り、お客はお店に買いに来る。それ以外の中間業者は不要というわけだ。

まぁ、ことはそんなに簡単にはいかないわけだけれど、商社の機能変化やその後の流通網の変化を考えれば、その方向に向かったことは間違いがない。それどころかDELLのようにメーカーが顧客接点を直接取り込んだモデルも登場した。メーカーとお客が直接結び付けば別な人間を介して販売する必要もないということだ。こうして「作る人」と「使う人」が直接結び付く。場合によっては個々のお客の異なる要望さえ受け入れながら。

これは会社のような組織でも同じこと。以前のように「取り纏め」をするための人、上からきた連絡を下に流すだけの人は廃される。「中間」管理職には数値目標が設定され、その数字こそが必要な証とされる。もっとも、こちらは多分に人間が介在するために今でも上から下に流すことが仕事だと勘違いをしている場合も多いが。

企業の場合、結局は「人」でありそれぞれの「人」に役割(業務)が紐付くこともあって単純に中間項(中間管理職)を廃せばいいというわけでない。各々の異なる業務束ねようとすれば管理は必然的に発生するし、効率的に管理を実行しようとすれば階層化は残らざろうえない。では、組織ではなく個人間のコミュニケーションの場合はどうか。

個人と個人とのやり取り(コミュニケーション)であれば、そこに中間項として存在するものなどないのではないか―。「僕」が話し「あなた」が聞く。そこには手紙や電話といった「媒体」は存在するかもしれないが、基本的には直接のやりとりだ。しかしここで僕が感じていることは、「媒体」として「インターネット」というメディアが介在することで、この個人のコミュニケーションが変化したのではないか、ということだ。

リアルな世界でも個人同士のやり取りはもちろん存在する。この場合、そのコミュニケーションの多くは「相手を知っている(知られている)」「顔が見える(見られている)」「声が聞こえる(聞かれている)」「自分が特定される可能性がある」といった要件を備えており、かつ生活の延長として行われている。つまり基本的なコミュニケーションを行う上で「匿名性」など存在していないし、また生活の延長ということは、それぞれが実生活で果たしている役割やペルソナ、倫理感に紐付きながらコミュニケーションを行っているということだ。

マンションの隣の部屋の奥さんとゴミを出しに行く際に軽く立ち話をする。立ち話をするくらいだから、「顔」くらいは知っているし相手を特定することもできるだろう。そうなると自然、相手と良好な関係を築こうとするような立ち振る舞いになるだろうし、こちら側からの主張をするだけでなく相手の話を聞こうともするだろう。言葉だけでなく表情やしぐさなどの情報をもとに相手の話を理解しようともするだろう。

それだけでない。その場に子供が一緒なら「親」としての立場を踏まえた言動になるだろうし、それが社宅であれば「会社」の一員としての配慮をするだろう。子供が同じ学校に通っていれば、子供への影響や親同士の関係を前提とした会話になるだろう。我々は大なり小なり社会の中で複数のコミュニティに所属し、それぞれに応じた「ペルソナ」や「常識」、「倫理感」に基づいて行動する。

こうした要素がリアルな世界では「個」と「個」のコミュニケーションでは「中間項」として存在することになる。職場で相性が合わない人間がいたとしても面と向かって「お前、嫌い」という人はいないだろう。

しかしネットの世界は違う。「2ちゃんねる」にしろ「BLOG」にしろ、あるいは「mixi」にても「匿名性」のネットワークとして存在している。そこではリアルな世界で前提であった要素は存在しない。その結果、同じ趣味・同じ関心の人間同士が結びついたとしても、あるいはそれだからこそ、各個人の感情や欲望がむき出しのコミュニケーションとなりかねない。

2ちゃんねるで「炎上」が起きるのは、ネット依存度の高くそのダークな側面も了解済みのメンバー内での「お祭り」騒ぎといえなくもないが、普通のブログやmixiでさえプチ炎上が頻繁に起こるというのはどうしてないのか。日常生活で遭遇すればいたって常識的な人たちが、ことネットでは「炎上」の参加者となりうるという事態は、やはり「インターネット」というメディアがリアルな世界では彼らを抑制している「何か」から、感情や欲望を解放させているのだと考えるべきだろう。

マクルーハンが指摘したように、メディアによって我々の感覚器官が無意識に変容していくのだとしたら、「インターネット」というメディアは、人間が社会の構成員として機能させるための「何か」―顔が見えるということや倫理感やペルソナなど社会関係を成立させるための抑制装置―から我々を解放し、人間の感情や本能、欲望といったものをむき出しにさせるのだろう。


マクルーハン / W.テレンス ゴードン:我々の身体感覚はどう変化するのか

winny問題から考える「分断された社会」


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