木村剛×切込隊長の争いも木村氏側が一段落させたと感じで、ようやく普通のブログに戻ってきた。今回の騒動について書かれた記事は数多あるが、こういった争いがある以上、ネットのサービスに対するトレーサビリティが必要ではないか、という興味深い記事がHOTWIREDブログに載っていたので、紹介を兼ねて感じたことを。
HOTWIRED:当事者間で紛争を解決するためのトレーサビリティ
この記事のポイントは切込隊長がブログ上で「落合氏」からのインタビューとして掲載された部分に対し木村氏が訴訟を起こそうとした時に、「切込隊長氏が、同じ内容を、落合氏を『日本振興銀行の関係者』とぼかし、自らも氏名・住所の登録は勿論、アクセスログの保存もおかないような『匿名性の保証』を売りにするBLOGや電子掲示板に書き込んでいたとしたら、木村氏としては、当該風評が虚偽のものであることを法廷で明らかにしたくとも明らかにでき」なくなってしまう。そうした場合の紛争処理のためにもハンドル名(やネット上に記載された事実関係に対して)トレーサビリティをつける必要があるのではないか、というもの。
個人的な感想からすると、そもそもこの争いに木村氏側の勝利はない。仮にそのやり取りの中で切込隊長を相手に訴訟を起こし賠償金を得たところで一度失ったイメージを回復することはできず、こうしたことの持つ意味と言うのはある種限定的かな、と。ただし今日の本題はこのことではないのでまた何かの機会に。
で、本題は、このトレーサビリティということが果たして「ブログ」に必要なのかどうかということについて。確かに小倉さんの言われていることはわかる。そのためには小倉さんが指摘されているようなハンドル名だけでなく、記載した内容とそれが公開されていた期間、修正の有無などが追えなければならないのだろう。
ただどうしても違和感を感じざろうえなのは、これがブログの場合でも当てはまるのか、ということ。
確かに僕の記事でも時々「いやいやだからちゃんと内容見て適切な反論してよ」と言いたくなるようなコメントが載っていることがある。そしてその多くが自分のサイト(blog)へのリンクもなければ、匿名のままでもある。たしかにこうした時の不快感というのは残る。しかしそのための機能として、gooブログでは不要なコメントを削除するという機能がついている。
そもそもBLOGの「利用用途」による定義など存在しないし、一般的には「日記」代わりとして紹介されているのではないか。とすると、普通「日記」というのは個人的なものを記すものであり、その内容について何を書こうがどう書き直そうが、あるいは削除しようが問題ないはずだ。いやいやそれをインターネット上に公開されているのが問題といわれれば、いやいやそれを覗くのがおかしくないかという言い方もできるだろう。
今回の木村剛×切込隊長の件については、両者とも既に多くの読者を持ち強いメディア性を帯びていたからこその問題であり、一般のブログにまで話を広げてしまうのは、ブログの匿名性のもつ自由度、ある種いい加減メディアであるからこその面白さを制限してしまうのではないか、と思う。
仮にこれが「2ちゃんねる」のような明確な事業主体が存在し、またそのサイトを(広告収入などの)営利目的のために運用しているのであれば、事業者の責任としてトレーサビリティを追求できる措置というのは必要かもしれない。このあたりのサジ加減というのは、社会的な合理性でだけで判断すべきではなく、ある種の自由度・新しい可能性を生み出す土壌を常に残す必要があるのではないだろうか。
インターネットとは常に「未完成な世界」であり、同時に「欲望メディア」である。様々な新しい技術や可能性を開く一方、その多くがリアルな世界では潜在意識の中に抑圧されている「欲望」「感情」と直結しやすく、だからこそそこで書かれる言葉の多くが実際以上に攻撃的になり、嘲笑的になり、いやらしくなり、愚かな言葉になりやすい。そうしたある意味人間のダークサイド部分を映し出すメディアであるという絶望的な認識と新しい可能性への希望の両方をもってインターネットに参加していかねばならないのだ。
HOTWIRED:当事者間で紛争を解決するためのトレーサビリティ
この記事のポイントは切込隊長がブログ上で「落合氏」からのインタビューとして掲載された部分に対し木村氏が訴訟を起こそうとした時に、「切込隊長氏が、同じ内容を、落合氏を『日本振興銀行の関係者』とぼかし、自らも氏名・住所の登録は勿論、アクセスログの保存もおかないような『匿名性の保証』を売りにするBLOGや電子掲示板に書き込んでいたとしたら、木村氏としては、当該風評が虚偽のものであることを法廷で明らかにしたくとも明らかにでき」なくなってしまう。そうした場合の紛争処理のためにもハンドル名(やネット上に記載された事実関係に対して)トレーサビリティをつける必要があるのではないか、というもの。
個人的な感想からすると、そもそもこの争いに木村氏側の勝利はない。仮にそのやり取りの中で切込隊長を相手に訴訟を起こし賠償金を得たところで一度失ったイメージを回復することはできず、こうしたことの持つ意味と言うのはある種限定的かな、と。ただし今日の本題はこのことではないのでまた何かの機会に。
で、本題は、このトレーサビリティということが果たして「ブログ」に必要なのかどうかということについて。確かに小倉さんの言われていることはわかる。そのためには小倉さんが指摘されているようなハンドル名だけでなく、記載した内容とそれが公開されていた期間、修正の有無などが追えなければならないのだろう。
ただどうしても違和感を感じざろうえなのは、これがブログの場合でも当てはまるのか、ということ。
確かに僕の記事でも時々「いやいやだからちゃんと内容見て適切な反論してよ」と言いたくなるようなコメントが載っていることがある。そしてその多くが自分のサイト(blog)へのリンクもなければ、匿名のままでもある。たしかにこうした時の不快感というのは残る。しかしそのための機能として、gooブログでは不要なコメントを削除するという機能がついている。
そもそもBLOGの「利用用途」による定義など存在しないし、一般的には「日記」代わりとして紹介されているのではないか。とすると、普通「日記」というのは個人的なものを記すものであり、その内容について何を書こうがどう書き直そうが、あるいは削除しようが問題ないはずだ。いやいやそれをインターネット上に公開されているのが問題といわれれば、いやいやそれを覗くのがおかしくないかという言い方もできるだろう。
今回の木村剛×切込隊長の件については、両者とも既に多くの読者を持ち強いメディア性を帯びていたからこその問題であり、一般のブログにまで話を広げてしまうのは、ブログの匿名性のもつ自由度、ある種いい加減メディアであるからこその面白さを制限してしまうのではないか、と思う。
仮にこれが「2ちゃんねる」のような明確な事業主体が存在し、またそのサイトを(広告収入などの)営利目的のために運用しているのであれば、事業者の責任としてトレーサビリティを追求できる措置というのは必要かもしれない。このあたりのサジ加減というのは、社会的な合理性でだけで判断すべきではなく、ある種の自由度・新しい可能性を生み出す土壌を常に残す必要があるのではないだろうか。
インターネットとは常に「未完成な世界」であり、同時に「欲望メディア」である。様々な新しい技術や可能性を開く一方、その多くがリアルな世界では潜在意識の中に抑圧されている「欲望」「感情」と直結しやすく、だからこそそこで書かれる言葉の多くが実際以上に攻撃的になり、嘲笑的になり、いやらしくなり、愚かな言葉になりやすい。そうしたある意味人間のダークサイド部分を映し出すメディアであるという絶望的な認識と新しい可能性への希望の両方をもってインターネットに参加していかねばならないのだ。
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