ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

ブレードランナー : 「道具」と「生命」の境界線としてのレプリカント

2004年10月31日 | 映画♪
例えば去勢された「飼い猫」を生き物として見なさない人はいないと思うが、仮に人間と同等の知性や運動能力をもつ、あるいはそれ以上の能力を持った「レプリカント」を「生命」として見なせないのは、人間中心主義もしくは、「神」にさえなれるのではないかと勘違いしつつも自らを脅かす存在を許すことのできない人間の横暴さだからであろうか。未だにカルト的な人気をもち、「イノセンス」をはじめその後のSFに多大な影響を与えた「ブレードランナー」を見ていると、レプリカントこそ「命」を欲しているのではないか、と思う。見たのは「ブレードランナー ディレクターズカット版」、原作は言わずもがなフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。映画は違うバージョンも存在しているらしいのだが、そちらも原作もまだ読んでいないので、見比べてみるのもいいかもしれない。

2019年11月。タイレル社が完成させたレプリカント4体が脱走し、地球に逃げ込むという事件が発生する。宇宙探索や植民地惑星開拓など危険な作業を行う目的で作られた人造人間=レプリカントだが、既に人間の知性や運動能力さえも凌駕する存在となっており、いつしか人間に対しての反乱をおこすようになった。そのためレプリカントには4年間という「寿命」がセットされていた。自ら生きつづけるために製造元の「タイレル社」へ侵入しようとする、バッティ(ルトガー・ハウアー)らレプリカント達。
レプリカントを射殺のための特命を受けたデッカード(ハリソン・フォード)は、タイレル社の社長でもあるタイレル博士(ジョン・ターケル)とレイチェル(ショーン・ヤング)に出合う。「感情」を持ち自らがレプリカントであることを知らないレイチェル。一方でバッティらレプリカントらを追い詰めつつ、デッカードはレイチェルとの関係を深めていくのだった…





作品そのものとしては、様々なテーマや問題提起を示唆しつつも、その映像ほどに十分にメッセージ性が描ききれた作品ではないのだろうが、これが1982年の作品だということを考えると確かに凄い作品だと思う。またリドリー・スコットが監督だったからこそこれだけの映像・雰囲気を作れたのだと思う反面、レイチェルの葛藤や関係性、様々な問題の提起の仕方に対しての掘り下げが弱くなったのだろう。(以前は、リドリー・スコットは恋愛が描けない監督で有名だった)

とはいえ、この映画を見ていると「レプリカント」たちこそが被害者に見えてしまうのは何故だろうか。レプリカントはもちろん人間の手によって創り出されたものだ。その意味ではまさに「道具」に他ならない。また少なくとも自らの手で己の「種」を保存するという生物としての根源的能力を有していない。それは例え自ら思考し行動できるとしても「生物」ではない。しかし、そこに「地球」に侵入したからといった殺される理由はない。

レイチェルがデッカードにこう問いかける、「人を殺したことある?」。

我々人間は常に何らかの正当性があれば人を殺すことを許容してきた。それにたいして彼らレプリカントは「殺す」ことを目的に地球にきたのではない。人間によって人工的に「死」を与えられるという状況から「生きる」ために脱走してきたのではなかったか。事実、デッカードによって追い詰められていくレプリカントたちの姿は生きるための必死さそのものだ。しかしレプリカントを殺したとしても人、あるいは生物を殺した時ほどの罪悪感はないのだろう。

我々は飼い猫のかわいい仕種や愛らしさを愛しつつ、生物の根本能力である生殖機能を平気で奪いとる。とはいえ、「飼い猫」を道具だとして平気で殺せる人はそんなに多くないであろう。では恋愛感情さえも持っているレイチェルを殺すことができるのだろうか?我々を支えているのは常に曖昧な境界線でしかない。

バッティの告白はそのことをより一層際立たせる。「死」の恐怖――本来、我々こそが持つであろう恐怖に対し、ただ怯えるしかないという現実。人間であれば様々な延命措置が行われるにも関わらず彼らにはただ「絶望」しかない。その「恐怖」に対しての知恵(「宗教」や「看取る」という行為を通じての「死」の経験)もなく子孫や家族に対し自らの記憶を残すということも許されない。

いや、不慮の事故でもない限り、人間であればその死期を何らかの形で知ることができるかもしれない。そしてそのための心づもりもできるかもしれない。しかしレプリカントが知るのは「彼女も惜しいですな、短い命とは」と言う言葉だけ。自らがレプリカントであるということも、その死期さえも知らされないのだ。

人間がレプリカントにしていることは許されることなのか。

バッティの「死」に際し一羽の鳩が飛び立っていく。それは「死」によって初めて「自由」な魂を得たとでも言うように…


【評価】
総 合:★★★☆☆
世界観:★★★★☆
テーマ深堀度:★★☆☆☆

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?


ディレクターズカット ブレードランナー 最終版



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