ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

大相撲八百長疑惑と社会を覆う不信感

2011年02月06日 | Weblog
「大相撲春場所」が取りやめになったとのこと。もちろん「八百長」報道の余波を受けてのもの。特に相撲に興味があるわけでもないので、気にする必要もないのだけれど、今回の一連の騒ぎを見ていると何とも妙な気になってしまう。「八百長」報道はこれが初めてではないし、「八百長」で成り立っている格闘技は他にもある。なぜ、大相撲はこんなに騒がれているのだろう。

仮に「プロレス」の世界で「八百長」が行われているという話が出てもそれに目くじらを立てる人はいないだろう。それは「プロレス」があくまで観客を楽しませるショーであり、その試合がエキサイティングな物語になることを前提に観客たちもそれを許容しているからだ。

これが「ボクシング」だとちょっと意味合いが違ってくる。「かませ犬」のような相手との試合は不満を言いながらも許容されるが、「八百長」については批判的だ。亀田兄弟が未だにボクシングファンから必ずしも好意的に思われていないのは、「八百長」説が払拭されないのと同じ根っこだろう。

同じ格闘技でも観客やファン、周囲の人々が何を期待しているかによってその許容度は違ってくる。「真剣勝負」であることが期待されていれば、相手が格下であろうと真剣勝負であることが望まれ、よりエキサイティングな試合内容が求められるのであればそれが真剣勝負でなくとも許される。

ということは、「相撲」というものに対してファンや周囲の人々は「真剣勝負」を求めていたのであり、それを裏切られたことが、今回、これだけの問題になったということか。

しかしこの見方にも実はもう1つ腑に落ちない。

「八百長」報道はこれまでにもあったし、周囲の人間にもそれなりの予感というものはあっただろう。それに今回の八百長の対象は十両でいられるかどうかといった力士たち。トップレベルの力士たちが疑惑対象ではない。

にも関わらずこの騒ぎぶりは何なのだろう。

そこには旧態依然とした組織の中でこうした「腐敗」は組織全体に根付いているのではないかという不安や疑心があるのではないか。そしてそれは何も相撲界だけのものではない。自民党政治を終わらせたのもこうした硬直化した組織への「不信感」だったし(そしてそれは新しいモデルを作り出せない民主党にむいている)、マスコミに対する不信というのも硬直化・既得権益化した制度や組織にあるといえるだろう。

あらゆる価値観が崩れ新しいものが求められる時代に、こうした古い組織の「腐敗」や「馴れ合い」に対して人々の目が厳しくなっているのだ。そしてその背景には新しい「価値観」やそれに相応した「組織」や「制度」「仕組み」の不在があるのだろう。

と、もう1つ。そうした古い組織・制度に対する批判は、そのはけ口が見出せないからか、ヒステリックな反応になりがちだ。今回の「大相撲八百長騒動」に対する反応にもそれは現れている。しかしそれが「相撲」に対してではなく、もっと漠然とした不安や不信感が背景にあるのだとしたら、今の世相というのは決していい状況ではないのだろう。



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