ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

「アイ,ロボット」の限界と可能性

2004年10月11日 | 映画♪
う~ん何だろう、結構映像は迫力があったし内容も楽しめたんだけれど、結局、ハリウッドではやはりこれ以上の深みは期待してはいけないってことだろうか、それともSFもの、特に近未来ものについては既にジャパニメーションが先行しており、ハリウッドが模倣する側に回っているということか。

西暦2035年。「人間に危害を加えてはいけない」「人間の命令に従わねばならない」上述の2条にそむかない限り「自己の身を守らなければならない」というロボット3原則に基づいて、人間の安全性が保証された人間とロボットの共存する社会。ロボット工学の第一人者 ラニング博士が自殺する。博士と友人でもあるスプーナー刑事(ウィル・スミス)はその死を博士が作ったNS-5型ロボット「サニー」の仕業ではないかと考える。ロボット心理学者カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は「ロボット3原則」を盾に否定するが、その一方で「サニー」には自らが考え、夢を見るという能力を持っているのだった…




原作はアイザック・アシモフ。アシモフの作品は読んだことがないのけれどちょっと読んでみたくなりました。ただこの作品について言えば、おそらくかなり押井守の作品が影響を与えているのでしょう。「サニー」の動きはどうみても草薙素子だし、多少定義はことなるものの「GHOST」と呼ばれる、設計者が規定していない(偶発性の?)自己生成プログラムの存在など作品の随所に「攻殻機動隊」の影響が出ています。ただし「攻殻機動隊」が押井守の観念の具現化だとしたら、こちらは単なるSFもの。思想的な深さはありません。

設定も「ロボット3原則」が前提というのは目新しいものの、基本的には所謂ロボットものの王道をいっており、ストーリーも良くも悪くも期待を裏切りません。特にその「V.I.K.I」についてはあまりにそのままの展開で、おいおいHALから何も変わってないじゃん!って突っ込みを入れたくなるほど。このあたりが世界中の全ての人々をターゲットにするハリウッドの限界なのでしょう。

この「ロボット3原則」が人間が支配されないことに対する安全性の担保というのは、やはりロボットが目的の重み付けができないというのが前提なのでしょう。人間のように「大きい目的のためには小さい犠牲も仕方がない」的な発想が可能になるのだとしたら、つまりプログラミングの際に1つ1つの処理手順(第1原則に従うかY or N→第2原則に従うかY or N…)を行うというのではなく、全ての処理を把握した上で、より効果的に目的を実行するためには処理手順に従わないことを許容するというプログラムがありうるのなら、この映画のように人間を管理下に置くということもあるのかも知れません。

それを考えるとやはり人間というのは良くも悪くもかなり高度な処理をしているのでしょう。時には合理的に、あるいは感情的・倫理的に、他者との関係性を含めて様々な価値基準から物事を判断する。それが必ずしも適切な判断であるとは限らないとしても…

ラストシーン。合目的性のための重み付けを可能とした「V.I.K.I」ではなく、人間の感情を価値基準に加えることが可能となった「サニー」が丘の上に立ち、そこにロボットたちが見上げながら集い始める。果たしてサニーは新しい世界の伝道者たりえるのだろうか。「感情」を備えるということは、より多くの判断の不完全性を導くことでもあるというのに。


【評価】
総合:★★★☆☆
ソニーのかっこよさ:★★★★☆
深み:★★☆☆☆

【参考】
われはロボット ( 著者: アイザク・アシモフ / 小尾芙佐 | 出版社: 早川書房 )
原作:われはロボット


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