ビールを飲みながら考えてみた…

日常の中でふっと感じたことを、テーマもなく、つれづれなるままに断片を切り取っていく作業です。

世界中の「知」を閉じ込めることは可能か

2006年07月06日 | 思考法・発想法
全人類の「知」をインターネット上でアクセス可能にする――かってテッド・ネルソンが唱えたザナドゥ計画などはまさにこの走りといっていいだろう。Webを通じて世界中の「知」がアクセス可能である。この言葉をはじめて聞いたとき、その壮大な計画に心躍らせたことを覚えている。しかし今、この言葉は、未だに魅力的な言葉ではあるけれど、ある種の戸惑いを隠せない。

果たして「知」とは何か。

例えば「宇宙は地球を中心に回っている」というと、現代人ならそんな馬鹿なと思うだろうが、プトレマイオスからコペルニクスまでの人々からすればすれは「正しい」ことであり、それこそが「知」であったはずだ。またある学者が若き日に発表した学説と、その後の学説で多少の相違があることは珍しくもないだろう。しかしそれをもって「変節」として彼を責めたてることは少ないだろう。

つまりミッシェル・フーコーがあきらかにしたように、「真理」や「知」といわれるものも、時代的な制約を受けるものであり、それが未来永劫変わらぬ「真実」であるとは限らないのである。そう考えると、果たしてこの「知」をインターネット上で閉じ込めるということは可能なのか。あるいはそれが正しいことなのか。

ここに2つのアプローチがある。

1つは、実際に存在する「図書館」のように、「知」の結実ともいえる書物を、例え時代によって制約されたものだとしても、それをその当時のまま保存していくというやり方である。ここでは当然、現在では正しくさも未来から見れば間違ったものも存在するし、あるいは同一の人物の主張であったとしてもその内容は「変化」していくかもしれない。つまり「正しさ」というものを相対的な存在として記録していくやり方である。

これまでのリアルな世界ではこうしたやり方しかなかったというのが現実だろう。もちろん中には広辞苑や辞典のように、「版」の変更によって内容が修正される場合もある。しかしそれにしてもその変更までの期間というのはある程度の長さをもち、また過去から未来にいたる複数の「版」を保存することも可能である。

それに対しインターネットが実現したもう1つのアプローチとして、常に更新された最新の「正しい」情報へのアクセスを可能にするというやり方がある。そう、まさにWebの世界、「wiki」などのアプローチだ。

「wiki」の根底には常にその時代に即した「正しさ」を提供する、あるいは常に人類は進歩しているのであり新しいものこそ「正しい」のだ、という姿勢がある。これは現代を生きる多くの人は、今の「正しさ」こそを求めているということを考えれば決して間違いではない。しかし同時に自分のHPを立ち上げたことのある人やWebサイトの運営に携わっている人であればわかるが、「今」以外の「版」の管理は現実的に不可能だ。

はたしてどちらのアプローチが正しいのか。これはまさに「知」に対するその人のスタンスの取り方。「知」に何を求めるかといったことによるのだろう。

事実、このBLOGにしても、過去に投稿した記事と最近書いた記事では物事に対する味方が変わっている場合はもちろんあるし、あるいは(誤字脱字の修正といったレベルを超えて)記事そのものを修正することも可能なのだ。前者はもちろん、その時々の「状況」に影響された結果であるし、後者は「過去」の内容は消し去られ、最後の形だけが残ることになる。

Webがもたらしさ「曖昧な時間感覚」は、「知」をめぐる状況さえも「曖昧」にしてしまったのだろう。


全人類の知識を収蔵するデジタル図書館--B・カール氏の壮大な使命 - CNET Japan

Web2.0時代の読者に求められる感覚





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