「八重の桜」で、新島襄が女学校で教える歌「主われを愛す」を、クララが歌った時、清国で聴いたので、清国の歌だと思っていた人がいました。
この賛美歌は、アナ・P・ウォーナーという女性が詩を書きました。
アナは、姉のスーザンとともに島に住んで、アメリカ士官学校の生徒のために聖書教育を60年間も行っていました。
そして、1859年に、アナが書いた小説「Say and seal」に入れられたのです。
それを、1862年に、ウィリアム・ブラッドベリーが、曲をつけて子供の愛唱歌として普及したのです。
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルは、宮沢の友人でクリスチャンの斎藤宗次郎だと言われています。
彼は、お寺の息子でしたが、小学校の教師になりました。
入院していた時、聖書と出会い、1900年(明治33)に洗礼を受けました。
岩手県花巻市で、初めてのクリスチャンでしたが、親から勘当され、町の人たちからは迫害されました。
無教会派の内村鑑三の影響で、非戦論を唱えたため、学校を辞めさせられ、新聞配達をしたのです。
9才の娘は、子供たちから「キリスト教徒の娘」だといじめられ、腹を蹴られたのが原因で腹膜炎を起こして亡くなりました。
それでも、人々を恨むこともなく、新聞配達の帰りには、病人を見舞い励ましたのです。
そして、第一にキリストに仕え、第二に人々に仕える生活を20年もしました。
彼が、東京に行くことになった時、町中の人々が、感謝して見送ったのです。
斎藤は、内村鑑三の弟子になり、内村が亡くなる時は泊まり込んで看病をしました。
宮沢賢治の「冬のスケッチ」という作品の中に、斎藤をもじったと言われる加藤宗二郎という人物が出てくるそうです。
1927年(昭和2)に、90才で、亡くなりました。
クララのお兄さんのウイルスは、通称ウィリイと呼ばれていますが、医師でアメリカ公使館の通訳もしていました。
その時、日本に来た宣教師たちみんなに便宜をはかりました。
そのおかげで、外国人はみんな日本を自由に旅行できる許可が降りたのです。
影で、宣教の働きを大きく助けたのです。