夏休みですが、今日から、仕事をしています。
ストーリーを作りながら、感動しています。
プロテスタントで、最初に洗礼を受けた方のお話です。
1865年(慶応元年)に、病気で亡くなる1ヶ月前に、バラの日本語の教師だった矢野が洗礼を受けました。
この時代は、聖書を持っていただけでも牢に入れられたのです。
命をかけて日本にやってきた宣教師たちの働きがなかったら、今の私たちの働きはありませんでした。
それを思うと、本当にありがたいですね。
今日、和歌山県で虹色の雲(彩雲)と、太陽の下にさかさまになった虹が現れました。
虹は、神さまの祝福を表すことが多いのです。
ところで、今日はカロザース(カラゾルス)宣教師のことを書いています。
彼は、明治2年に東京の築地で英語塾を開きますが、性格が荒いためにトラブルばかり起こしていました。
学生たちからは、人を許せない心の狭い人間だと言われ、大雑把な顔からオランウータンというあだ名で呼ばれていました。
イエスと言う名前を翻訳するとき、日本人が中国から来た耶蘇(ヤソ)を使っていたので、それを使うべきだと主張したのです。
それが受けいらられなくて、ミッションを脱退しました。
その後は、田舎の学校を転々としますが、いつもトラブルを起こしたのです。
最後には、天皇の写真に礼拝しなかったという不敬事件を起こし、帰国しました。
聖人のように、日本人に愛され尊敬されたヘボンとは真逆な人生をたどった方でした。
プロテスタント史を描くときに、彼の写真が無かったので横浜の大学から取り寄せたことがありましたが、今ではいくつかの本の中に載っています。
写真は、イギリスでバスの中から撮った彩雲です。雲が一つずつ虹になっています。
昨日まで、ヘボンの資料の整理をしていました。
ヘボンと言うと、ヘボン式ローマ字を作り、和英の辞典を作った方です。
96才と言う長生きをされました。
ヘボンは、眼科が専門でしたが、内科と外科の治療も行っていました。
五人の子供が幼児期で亡くなり、一人だけサムエルが成長しました。
ヘボン夫妻が、宣教医として、日本に来られた時、サムエルはアメリカの祖父の家にいましたが、そこを出てしまいます。
父親の友人宅に住み、学校に通いますが、いろいろ問題児でトラブルを起こしていました。
ヘボン夫人は、サムエルのために、一時帰国をしたことがあります。
やがて、サムエルも来日し、後に日本の汽船会社で働き、ヘボンの隣の家に住みました。
サムエルの奥さんは、ヘボンの奥さんと同じ名前のクララです。
このクララと言う名前は、多いですね。
サムの妻クララが一時帰国をする時、ヘボンは弟の牧師にこのような内容の手紙を出しています。
「この手紙を運ぶ汽船で帰国する。故郷の親戚の者が、クララを温かく迎えてやって欲しい。出来れば、彼女に会ってやって欲しい。
彼女は、長老教会の会員ですが、そう熱心な信者ではではない。世俗の事に夢中で、私どものサムによいキリスト教の感化を与えないのが残念。」
愛する唯一の息子が信仰がなくて、奥さんも世俗的なクリスチャンだと言うことが、ヘボンの最大の悩みでした。
どの本にもヘボンの悪口を書いた物は見たことがありません。
本人が、弟に書いた手紙が沢山起こっていますが、年を取って夫妻でリューマチにかかり、足を引きずって歩いていて大変だと来ています。
また、眼下医だったのに、自分はいつも目が悪かったそうです。
ヘボンは多くの医学生を育てたので、彼がいなかったら、日本の医学が遅れていた部分もあったと思います。
また、奥さんがはじめた女学校から25年経って、日本では官立の女学校ができました。
日本のキリスト教伝道の草分けで、多くの病人を無料で見て、政府の役人からは「君人」と呼ばれていたヘボン、本当に尊敬します。
今、ヘボンのデーターを作っています。
前にマンガ「一粒の麦」でヘボンを中心に描いた作品があります。
多少、手直ししないといけないと思いつつできないでいます。
ところで、このヘボンは、本当はヘップバーンと言いますが、日本人が発音できないのでヘボンと呼ばれました。
フルベッキも、バーベックが本当ですが、同じ理由でフルベッキとなりました。
ヘボンは、ヘボン式ローマ字を作り、日本における初めての和英辞典「和英語林集成」も作りました。
聖書の翻訳も、聖書翻訳委員会を作って完成させました。
「和英語林集成」は、すごく売れましたが、明治19年の第三版の時に版権を出版社に売りました。
当時のお金で、一万円でした。
明治40年の1万円は平成10年の1,088万円だそうで、それから行くと単純に1,100万円位ですね。
そのお金を、自分が総理をしていた明治学院に寄付したので、そのお金でヘボン館を作る費用に充てました。
在日33年後の明治22年、ヘボンは77才でアメリカに帰りました。
アメリカの自宅には、高橋是清なども訪問しています。
そして、1911年(明治44)9月21日、午前5時、96才で亡くなりますが、その同じ日の早朝、明治学院のヘボン館が、原因不明の火事で焼失したのです。
これは、本当に不思議ですね。
ヘボンという宣教医がいました。
ヘボン式ローマ字を作り、和英辞典を作り、明治学院を作った方です。
横浜に住み、無料で、病人たちの面倒を見て、日本人のために生涯を捧げてくださいました。
ご自分の子供は、5人も亡くされ一人だけ成長しました。
でも、その子供の夫婦は信仰は持っていませんでしたが、晩年はどうなったのか分かりません。
ヘボンの奥さんのクララは、日本人の子供を亡くなった自分の子供のように愛し、日本人の母と言われました。
夫婦そろって日本人のために尽くしてくださいました。
時間のある時に、精しいお話を描きます。