『散歩で見かけた花シリーズー(5)』
この日記を続けて20年になる。昔はピンポンをしてきた日には必ず書くと決めて
やってきた。しかしコロナ生活になってからは何しろ出掛けることも何もなくなり
(通院以外は)、手元にあるのは虚しい時間ばかりとなった。
元々暇だった私がますます時間の余裕だけは出来たので、ピンポン以外の日にも、
時には本当の日記の様に毎日書くことも多くなった。
言ってみれば最近のこの日記は、コロナ故の日記である。又知人友人から素敵な写真が
送られて来ると、早くそれを使いたくて書くと言うことも度々だった。
人からは、「よくも続くものだね」とか「よく次々書くことが有るものだ」とか
「よくも飽きずにやってるね」や「見ている人もあまり居ないだろうに」等と揶揄される
事もある。
しかし日記であるのだから、毎日の出来事、何をしたか、思ったこと、感じたことを書く
とすれば、日々生活している限り「日々是新たなり」で書くことには困らない筈だ。
立派なことを書こうとか、格好良くとか見栄を張ったり、受けを狙ったり考えたりすると、
これは途端に難しくなって書くネタにも困り続かないだろう。
その点、思ったことをそのままだから、何も困らないのである。
それでもこれにも問題があって、所詮は凡人の私が思うこと考えること或いは行ったことで
あるから、それは陳腐でありふれた平凡で退屈な日々の連続であり、日記が同じ事の繰り返し
となってしまうのが免れないことだ。
たまたまこれを読んだ方の退屈と書いている自分自身のマンネリ感や嫌気を思う時には、
さすがにいささか気が引けてくる。
しかしその日で一番の関心事を書くとしたら、コロナ日記、ウクライナ日記になってしまうだろう。
日記の効用の中で大きなものの1つに、怒り、不平不満、私憤も公憤も、そんな感情を書くこと
によって発散できる、つまりは「カタルシス」と言うことがある。
これは別に長年書いている手書きの日記で昔からずいぶんとお世話になっている。
これがあるから何とか精神の安定を保っていられるのだとさえ思える。(安定しているなんて
そう思っているのは自分だけかも知れないけれど)
今後もその効用は本物の日記に任せて、このブログ日記は努めてあっさりと短く客観的に
私情に流されることなく書きたいと思う。
ということでいざ書こうとキーを叩き出すと、(こう書くと何か如何にも早そうだが、
実際はスローで書こうと思ったことに手が全然追いつかない。何しろ使っているのは右の
人差し指1本なのだから)、ついつい思うまま愚痴や怒りまでもそのまま書いてしまいそうだ。
あまり愚痴日記や不安や不調の病気日記にはしないように気をつけようと思ってはいる。