「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。
もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」
マタイ 5章 13節
塩は太陽と海からできている、塩は神々への捧げものの中でもっとも原始的なものであり、
ユダヤ人は一日中、犠牲として塩を捧げたらしい。それほど塩は純潔を連想させ、光り輝く白さに純潔を思わせました。
塩というものは、それほど高価ではありません。しかし、生活には必要欠くべからざるものです。
「 地の塩 」 と言うとき、イエスは、あなたが家庭でも、職場でも、なくてはならない人だと言うのです。
「 なくてはならぬ 」 ことを決定づけるのは塩の場合、その辛さです。「 辛さ 」 は、福音であり信仰であり、
イエスその人です。どんな料理でも塩加減ひとつで味が決まります、
他のものを失っても、「 辛さ 」 を失っていなければ、あなたは有用です。他の全てのものを豊かに持っていても、
これを失ったならば無用です、味付けの時、塩は溶けて自分は無くなります。塩が固まりであったときには、
その料理は。「 辛い 」 と言って食べられません。私たちがこの世に味をつけるのは、溶けて自分を捨てたときです。
そして、相手に「 辛味 」をつけるのです。
蛇足だが。最近の世の中は甘味がききすぎているように思う。そこで、この世にピリッと塩味をきかせる責任が
教会や私たちにあると思うのですがいかがでしょうか。
聖書から少し
「 いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。
そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。 」 コロサイ 4:6
「 人はすべて火で塩づけられねばならない。塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、
何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」。
マルコ 9:49 ~50
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