「 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」
ルカの福音書 18章 1節
私たちの主イエスは、いつでも、どんな時でも絶えず祈れるように、たとえを用いて話されました。
「絶えず」「いつも」という表現はこの当時画期的な表現でした。
当時のユダヤ教では、「 神を絶えざる祈りで煩わせるな、一日三回より多く祈るべきでない」と教えていた。
神を畏れず( 恐れず ) 人を人とも思わない裁判官のところに、非力な貧しいやもめが助けを求めてやってきました。
あまりにひつこく訴えるので、煩わしくなって、その訴えを聞き入れたというのです。
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、
彼らをいつまでもほっておかれることがあろうか」とイエスは言っています。
私たちはどんな問題でも神のところへ携えて行き、祈り続けなければなりません、それは確信と期待を持った信仰の祈りなのです。
私たちは絶えず祈り続ける者ですが祈りが応えられる時と方法、その結果については神にお任せしなくてはなりません。
それは神が一番良いときに、最善の方法で答えてくださることを信じるからです。祈りを通して自分の問題を理解し整理し、
神にそれらの問題の中に介入していただくのです。
「 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」 伝道者の書 3:11
信仰のない祈りとは、
マタイ 6:7
「 祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」
私たちはこの世において、失望させるようなことが多く出てきます。希望をなくさせるような出来事が起こります。
でも、失望しないように祈りなさい、神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。
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