「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」
マタイ 7章 1節
人のあら探しをしたり、必要以上に批判的になる事です。この場合、人の言っていること、行っていることの動機までを裁きます。
けれども、はっきりと目に見えるかたちで罪を犯しているのとは違って、人が心の中で犯している罪を私たちは裁くことができません。
人の心の態度や隠れて行っていることは、神のみが知っておられることであり、神のみが正しく裁くことができるのです。
したがってイエスは、「さばいてはいけません。」と言われました。その理由として、「裁かれないためです。」とあります。
上司の悪口を言いながら飲むお酒のうまさは格別だといいます。また、私の知人で、どうしても親しめない二人がいました。
ある時共通の友達の悪口を語るうちに、この二人は急速に接近して、無二の親友となりました(?)。
この二人にとって人の悪る口はこの上もない美味のようでした。しかし、人を裁く刀で自分も切られることを知らなければならない。
自分が人を裁くその言葉は、自分も人から言われているのです。知らぬは本人ばかりということがよくあります。
人を切り口鋭く裁く者は、自分は正しいと思い込んでいるからそれができるのです。しかし、どうして自分だけが絶対であると言えるでしょうか。
愛のない無責任な言葉は、人と自分との間の距離を広げます。むしろ私たちは隣人を愛し、距離を縮め、
「何事でも人々からしてほしいと望むこと」を、その通りにしてあげられるものになりたいものです。
イエスご自身でさえ、このような裁きは行なわれませんでした。
ヨハネ5:30
「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、
わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」
聖書並行箇所
ルカ6:37-38
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、
あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される
・・・あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます