一刀入魂 勇往邁進

2012年4月デビュー
2015年5月初勝利&再起不能
2019年、人生本番開始(笑)

鎮魂の祈りと、人の業

2014-08-11 01:27:58 | 日記
8月6日は、広島に原爆が投下された日です。

「非戦闘員」という、戦争・戦闘ありきの呼称には少々の抵抗感があるが、
つまりは、武器持たぬ、戦意持たぬ一般市民が、何万人と虐殺された日。


僕は両親ともに広島生まれ、広島育ちで
ご先祖様に遡っても広島に根差した家系です。

今でも時折広島を訪れる際には、
とても言葉では言い表せぬ想いを抱きます。

郷愁の念と言いましょうか、自分の本当の故郷の大地であると、
物言わぬ木々、水、空気から、そしてそこに住まう人々から
感じる事が出来る掛け替えのない土地です。

静かに、しかし誰に憚る事無く強く、
「愛している」と誇りを持って言える、僕にとって唯一の聖域です。


69年前のこの日、今でこそ逞しく営々と育まれているこの広島の全ての生命が
惨たらしい灰燼の世界へと突き落とされた。


父方の祖母は、その日広島市内に所用で訪れていたらしい。
爆心地と呼ぶのなら、正にその真っ只中にいた。
商業施設の地下にいたらしい。

僕が祖母と幾つかの思い出があるのはそれが要因でもあるのだろう。
地上にいたのであれば、僕は祖母の顔を知らずに育っていたに違いないのだから。


筆舌に尽くし難い衝撃と轟音が鳴る。地鳴りなのか爆発なのかすら理解出来ぬままに、
祖母は地下から地上へと走り出たそうだ。


多くの人が、ほんの少し前まで行き交っていた。
しかし祖母がその時目にしたのは、凡そ街とは呼べぬ、
いや、地獄かと見紛う惨状だった。
建物は無く、爆炎に包まれ、あるのは瓦礫と呻き声。

祖母は心根の強い人だった。
生前、もっと沢山の教えを請うていたらと、今にして惜しむばかりだ。

「自分の住む町は、どうなってしまったのか」

祖母は市内から数十キロ離れた自宅を、徒歩で目指したらしい。

その道すがら、親と逸れたであろうまだ幼い血まみれの子供を見かけた為、
その男女とも分からぬ幼児を背負い、祖母は自宅まで歩き抜いたそうだ。


何とか帰宅した祖母の背で、その幼児は息絶えていたらしい。


父方の祖父は、後日爆心地へ赴いた。
亡くなった方の身元調査、所謂遺体処理を主とした任務の為。
なので事後、祖父は被爆手帳を持っていたのを記憶している。

恐らく、僕などでは想像も出来ない凄惨なその時の状況、その一部始終を経て、
祖父はきっと何かを強く刻み込んだのだと思う。
破天荒で血気盛んだった祖父が、父に唯一残した処世訓が

「この世で最も恐ろしいのは、人間だ」


だからだ。


原爆投下から69年。

後世に残された僕たちには、あの日亡くなった方々へ
想いを馳せる事や祈りを捧げる事しか出来ないのだろうか。

何故、倹しくとも小さな幸せを信じた、武器持たぬ多くの人々が
命を奪われなければならなかったのか。
無残にも殺されなければならなかったのか。
或いは以後、苦しみの中で生きねばならなかったのか。


力というものを、人間は穿き違えている。

強さというものは、人の屍の上に座して誇示するものでは決してない。

そして況や、己の正当性を声高に吠え、

罪なき魂に、死して尚全てを背負わせ、己の溜飲を下げるなど人の業ではない筈だ。

それは「弱さ」以外の何物でもないのだから。


あの日を境に奪われた「強き」魂たちを想い、渾身込めて祈る。
せめて、せめて貴方達が静かに眠れますようにと。

そして同時に、自分とその大切な人達にだけは、
強き魂を受け継いでいけるように、語り継いでいく。

きっと、全ての人が同じように、同じような優しさや強さは共有し合えないだろうし、
同じ事で同じ時に、同じだけの涙を流す事もないのだろうから、
せめて分かり合える人達とは、貴方達の事を想います。


罪なき魂と、人の業へ

鎮魂の祈りを込めて





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